「植民地の学校制度(1)」(2022年09月23日)

VOCが破産してバタヴィア共和国が正と負の遺産を引き継いだ後、東インドはオランダ
→フランス→イギリスと宗主が転変してから1816年に新生オランダ王国に返還されて、
オランダの植民地としての第一歩を踏み出した。植民地政策の中にもちろん教育問題が含
まれている。まず、植民地に在留するオランダ人の子弟に対する教育に焦点が当たった。
対象はすぐに同じ宗教文明の中にいる他のヨーロッパ諸国人に広げられた。

1817年、7年制のEuropees Lagere School略称ELSが東インドにいるヨーロッパ人
子弟の教育のために設けられたのである。このユーロペースラヘレスホールは19世紀を
通して東インド在留ヨーロッパ人だけを対象にしていたが、本国政府が始めた倫理政策の
おかげで1903年にプリブミに門戸が開かれ、プリブミ上流階層の子弟にも入学が認め
られるようになった。プリブミのプリアイ層だけでなく華人の富裕層も入学することがで
きた。


しかしどうやら、すべての民族の子を集めて行うヨーロッパ式教育が種々の問題をはらん
でいることが明らかになったようで、植民地政庁はELSをヨーロッパ人子弟専用に戻し、
1907年にアジア人向け教育を行う学校を別に設けて生徒を分離させた。更に1908
年にはプリブミ向けと華人向けを分離させて別々の学校を開いている。

ただしそれは人種を基準にして学校を分けたのでなく、カリキュラムをヨーロッパ人向け、
プリブミ向け、華人向けにしたために対象者のマジョリティがそのように分かれる結果に
なったのであり、決してアパルトヘイトを意図して行われたものではないように思われる。
たとえば華人向けカリキュラムの中に中国語の教科が含まれているために、普通のヨーロ
ッパ人やプリブミにはそのような教育を受ける必然性がないから、非華人は華人向け学校
へ行く傾向を持たなくなるというようなことだ。

子供を完全なヨーロッパ文化の中で育てようと望んだプリブミの親は子供をELSに入れ
たし、オランダ系プラナカンの子供がプリブミ向け学校に通うということも少なくなかっ
た。スカルノ、ハッタ、ドクトルストモなど民族独立の志士たちの学歴を見ると、ELS
という言葉があちこちに散見される。


このように学校名からして人種分離あるいは人種隔離を思わせる名称を使いながらも、実
態は人種を絶対的な基準に置かず、人種とは無関係にそこに設けられた条件に合わせて本
人が持った意志を受け入れる内容になっていた例を、われわれはバタヴィア蒸気トラムや
電気トラムの等級制度に見出すことができる。それらのトラムも一等二等三等の車両に分
けられ、一等車はヨーロッパ人と印欧混血者、二等車はアラブ人・華人・プリブミ貴族、
三等車はプリブミ平民が対象乗客で、料金がそれぞれ異なっていた。ところが一等はヨー
ロッパ人用などと表向きは謳っておきながら、一等料金さえ払えばプリブミも一等に乗っ
て決して追い払われることがなかった。

しばしばオランダ人の植民地政策は人種差別の典型例として引き合いに出されるし、政治
や住民管理行政において実際にそれがひしひしと感じられるようなものもたくさん持って
いて、イギリス人の姿勢に比較するとオランダ人のエキセントリックさが浮き出されるの
が常なのだが、上のような公共の場における、まるで腰砕けのような人種差別の例を見る
なら、オランダ人の身辺にしみついた既存のイメージとまるで裏腹な事実が存在すること
をわれわれはどう解釈すればよいのだろうか?


プリブミ子弟を集めた学校はHollandsch-Inlandsche School略称HISと命名されて、1
914年からその名称が使われ始めた。華人学校の名称はHollandsch-Chineesche School
略称HCSとされた。ELS・HIS・HCSはすべて7年間の初等教育だ。

学校での教育はオランダ語を媒介言語にしたから、どの学校にせよ、学校に上がった生徒
は必然的にオランダ語と母語の二重言語者になっていった。植民地時代のプリブミインテ
リは母語が異なっていても、たいてい両者間に共通な地方語あるいはオランダ語で意思疎
通ができていたようだ。[ 続く ]