「マルチ肉食(1)」(2022年10月04日)

人間の肉食のために供される動物はそれを目的にして育てられたものだけにして、食用の
ために生まれ育った以外の動物肉は食べないものだというノルマが現代社会に存在してい
るのだろうか?いや決して全世界を覆っているということでなく、一部のひとびとの間で
それが信奉されているのではないかということだ。たとえば犬や猫の肉を人間は食べない
ものだという自己規制についてのことをわたしは言っている。

人間は雑食であり、植物性食材も動物性食材も食べるものだというのが公式定義ではなか
ったろうか。ところがどうだろう、植物性食物は安全性の許す限り多岐にわたって食べて
いる一方、動物性食物はそうとう選択的に習慣性に服従して限定的に食べているだけにさ
れているのではあるまいか。

もしそうであるなら、人間は雑食や混色をしていると言いながらも、肉とそれ以外のもの
との間に見られる内容の貧富の激しさをわれわれはどう考えればよいのだろうか?地球上
の生態系云々の話は、牛・ヤギ・鶏などの実例が示す通り、人間はその問題を乗り越える
力を持っていることが証明されているのではなかったろうか。


日本人も昔は産卵鶏を家で飼うところが少なくなかった。産んだ卵は食卓に載り、その雌
鶏は家族のペットにもなった。年経て産卵能力が衰えたころ、子供たちのペットだった雌
鶏は絞められ、解体されて、一家団欒の夕食の鍋に入った。

それは子供たちが動物の解剖学を学ぶ貴重な機会を提供した。子供心に悲しみが湧かなか
ったわけでは決してなかっただろうが、生きるということが何なのかを味わうひとつの教
えにそれがなったようにも思われるのである。


使役用の動物が年老いて十分に力を発揮できなくなるとインドネシアでは、自然死を待つ
ことなく、屠殺され解体されて食用肉にされる。水田を鋤く農耕用の水牛が年老いれば、
その運命が待ち構えている。

ジャワ島西北部のバンテン地方でひとびとの暮らしに密着しているのは、牛でなくて水牛
だ。エドゥアール・ダウス・デッカーがムルタトゥリの筆名で著した世界史上に残る名作
『マックス・ハフェラアル』の中のエピソード「サイジャとアディンダ」にも、バンテン
社会にとって水牛がいかに普通の存在だったかが物語られている。「サイジャとアディン
ダ」の物語はこちらで参照いただけます。
http://indojoho.ciao.jp/archives/library05.html


ところがバンテン人に「どうして牛でなくて水牛が・・?」と尋ねても、満足できる回答
がどこからも得られない。現実に水牛を扱っている牧畜者や所有者、あるいは食肉の売買
を行っているひとたちからも、先祖代々水牛を扱っているためといった程度の答えしか返
ってこない。バンテン人の中には牛肉よりも水牛肉を好むひとが実際にいて、特にプアサ
やルバランのような祝祭のための料理として、水牛肉がなければ祝祭にならないとまで言
うひとがいるのだから、非バンテン人から見ると病膏肓に入る雰囲気を感じることになる
にちがいあるまい。

というのも、非バンテン人にとっての共通認識が、水牛というのは水田耕作の力仕事のた
めに使役される動物であり、それが年老いて力仕事の役に立たなくなるとその肉が人間の
食用にされるのだから、食用に育てられたまだ若い牛の肉よりも筋張って硬く、食物とし
ての品質は牛に劣っているというものになっているためだ。わたしもインドネシア新参者
の時代に先達から、水牛肉は低品質だという話を聞かされたことがある。

ところがバンテンの知識人たちはその認識に対して、古い時代の実態をいつまでも修正し
ないまま持ち続けているにすぎない一種の伝説神話であり、時代は既に変化しているのだ
と反論する。年老いたために解体された肉がないわけではないものの、バンテンでも水田
の用地転換が激しい勢いで進展したため、耕作地の減少が使役用水牛の需要を大幅に減少
させた。その結果、老齢まで使役される水牛が減ったという事実がある。パサルで売られ
ている水牛肉の中に若い肉もたっぷりと混じっているのだそうだ。[ 続く ]