「北の黄色い小人(4)」(2022年12月27日)

北はジャワ人にとって凶方位なのである。歴代のジャワの王国が発展拡張を行うとき、か
れらはいつも北に向かった。そしてジャワの勢いが弱まったときは、北からの逆流がジャ
ワを目指して襲ってきた。ジャワが宿命的に背負わねばならない原理がそれだったにちが
いあるまい。

ジャワ人の家屋は南北方向を軸にして建てられるのが普通だ。東西を軸にした場合は日射
が強すぎて快適でなくなるという自然現象がその根源だそうで、自ずと南北が方位として
強い意味を持つようになった。方位に関する意味付けは元々ヒンドゥ文化のもたらしたも
のになっていたが、その後も自然現象や歴史内の諸事件が色付けを与えたようだ。

ジャワ人が家を建てるときに口にする昔からの言い伝えには、台所の炉や樋は口が北に向
くように作ってはならないとか、しゃがんだときに顔が北に向くような形で厠を作っては
ならないといったものがある。

ともあれ、北の黄色い小人がやってくるという言い回しには、それが凶事であるというニ
ュアンスが込められていたのかもしれない。北から来たと思っていなかったものの本当は
北からやってきてジャワ島を過酷な支配の下に落とし入れた白人を黄人がやってきてジャ
ワから追い払ったからと言って、それをジャワにとっての善事だと思ってはいけないとい
う意味を込めて、あえて「北の黄人」と表現したのだろうか?


その黄人とはいったい何者なのか?歴史が既に予言の内容を現実に示したあとの時代に生
きているわれわれには分かり切っている話であるのだが、1942年3月1日のジャワ島
北海岸部で起こったできごとを想像することもできなかった時代のひとびとはさまざまな
空想をそこに重ねたことだろう。

オランダ人がこの予言の白人の役に自ら就いて予言を演じようとした可能性は上で触れた。
しかし日本人の間に「北の黄人」の役を演じようとする意識は爪の垢ほどもなかったにち
がいあるまい。もちろん、ジョヨボヨの予言自体を知らなかっただろうから、「北の黄人」
の行動を執り始めたときにそれを予言に結び付けようがなかったのは言うまでもないこと
だ。ただ、1941年12月に始めたこの戦争が短期間で終わるという読みを入れた人物
は日本にたくさんいたそうだから、その点に関して言うならジョヨボヨの予言もそれを見
通していたと言えるかもしれない。

ところが、その「北の黄人」は日本人のことなのだ、ということが20世紀に入ってから
インドネシア人の間でささやかれるようになった。予言の内容を予言するような話だが、
第一次世界大戦が終わってから、国際情勢を読むのに聡いひとびとは将来世界がどのよう
になっていくのかということを地政学的に推測することができた。

明治維新以後アジアに一大勢力を築いてきた大日本帝国が1930年代に南進論を活発化
させたことによって、将来何が起こりそうかということがインドネシア人の目にも明らか
になりはじめた。大日本帝国軍がジャワ島を占領すれば、白人は追い払われる。日本人は
肌が黄色で小柄だ。おお、これがジョヨボヨの予言だったのだ。


20世紀に入ってオランダ本国が東インド植民地に対する基本方針を改めた。倫理政策と
呼ばれるものだ。ヨーロッパレベルの教育をプリブミに与えることが政策のひとつになり、
優秀なプリブミたちはさまざまな学問知識を身に着けた。そして、白人による植民地支配
が非人道的であり、各民族は自由と独立を基盤に置いて民族生活を行うのがまともなあり
かたであるという、ヨーロッパ文明において基本的な学問知識も一般化した。

それまで植民地主義者が東インドで行ってきた愚民政策をひっくり返すようなことをオラ
ンダ本国が始めたようなものだ。植民地統治行政の中で、民族主義者・独立運動家たちへ
の締め付けが厳しくなった。それが民族主義者・独立運動家の反オランダ運動を先鋭化さ
せることになる。[ 続く ]