「北の黄色い小人(8)」(2023年01月06日)

下士官兵の中に、統治支配者の地位をかさにきてプリブミを非人道的に扱う者もあったが、
好んでインドネシア人と親しくなるように努めた者もたくさんいた。インドネシア語を覚
えた者の中に、「ニッポン インドネシア サマサマ」というまるで宣伝部が作る懐柔ス
ローガンのような言葉を言う者たちもあった。

ところが将校はその顔つきから姿勢や立ち居振る舞いに至るまでたいそうな威厳と落ち着
きを示し、まるで下士官兵とは人種が違うのではないかという印象をプリブミに与えた。
帯剣し、長靴を履いて軍装に身を包んだ姿は、見栄えの良い伊達男を彷彿とさせるものだ
ったそうだ。

日本のサムライ制度は明治維新によって廃止されたにもかかわらず、その精神は軍隊の中
に滔々と流れ込んだ。日本の軍人精神は武士道を踏まえたものになり、将校たちは武士を
もって自ら任じた。将校の階級は尉官・佐官・将官に別れており、ジャワ島を統治する駐
留軍のトップは中将が最高指揮官を務め、少将が地方部の要所を統括した。


将校は夜間の外出を私服で行うことが許されていたので、レストラン・映画館・夜市・将
校クラブなどに私服で出かけることが多かったらしい。中にはプリブミの帽子ペチをかぶ
るのを好んだ者もいたそうだ。

将校の中には英語を流暢に話す者がおり、また軍医の中にもドイツ語が堪能な者がいた。
そして高等教育を受けた知識層であるために、かれらはインドネシアの知識人や青年知識
層と交わることを好み、中には友人になったインドネシア人からインドネシア語を学ぶ者
もあった。

仲良くなったインドネシア人青年と日本軍将校は日曜日にジャカルタの郊外へ自転車でピ
クニックに行ったり、池で魚釣りをしたり、郊外のデサに住む村役の家に立ち寄って昼食
を食べたりした。当時のデサの住民は生活環境の中で食材を得るのが普通であり、調理法
も昔ながらの伝統的なものだったから、日本人将校はご飯がとても美味しいことを不思議
がり、また日本人にとって珍しいペペス料理に舌鼓を打った。日本人は鯉のペペスをたい
へん好んだという話だ。


そんな将校の中にも、伍長や軍曹のように軟弱な土人を教育しようとする者がいて、土人
のアラを探してはビンタを張った。それをするのはだいたい少尉が多かったらしい。イン
ドネシア人はその時代の日本人の暴力性に驚かされた。プリブミを殴ることをオランダ人
がしなかったわけでは決してないものの、かれらがなじんだヨーロッパ文明における暴力
性とはたいへん異なる日本人の暴力性に目をみはったということだ。それは暴力というも
のの本質論でなくて、様式の違いがもたらしたもののようにわたしには思われる。

日本人とオランダ人の間に見られたプリブミを殴る現象における違いをたくさんのプリブ
ミが書き残している。その違いとは、オランダ人は相手の悪いところや間違った点をくど
くどと説明してから殴るが、日本人は何も言わずに手が先に出た。その矢面に立たされた
プリブミたちの多くは日本人の行為に、まるで人間がすることとは思えないという感想を
抱いたそうだが、そのコメントはヨーロッパの人間観に従ったものだろう。


殴ることを反省のきっかけにするという日本式教育法は人間の資質に関する一種の英才教
育ではないだろうか。殴られるのは自分の落ち度や不足を告げていることであり、その原
因を自分の中に探るという反省行動を自らの意志で行い、それを突き止めて今後の自分の
あり方に反映させていくことがこの教育法の目指す内容だったように思われる。

だがこの教育法を尊師だけが行ったのでなく、加虐志向の暴力愛好者も尊師の顔をして同
じことをした。そしてこの教育メソッドを受ける能力を持っている生徒も数が限られてい
た。大多数の者は猿回しのサルが行う反省ポーズでそれを乗り切ったのではなかったろう
か。効率について言うなら、それは効率が悪く、しかも暴力を使うという点で劣悪な教育
メソッドだったと言えるだろう。しかしそれで百人中の5人10人が素晴らしい資質を持
つようになるなら、それをしないまま一人二人の優れた人間が自然発生的に現れるのを待
つよりも行動的積極的であり、暴力を伴うことだけを理由にして排斥されるべきものとも
言えない気がするのだが、結局のところは社会が持つ「人間とは何か」という哲学が最終
決断を下すことがらになるように思われる。[ 続く ]