「北の黄色い小人(9)」(2023年01月09日)

少尉が尊大な態度で威勢よく活発に手を出していたのと対照的に、佐官級はおとなしく穏
やかで、よくスマイルを口元に浮かべていた。とはいえ、眼光は鋭く、指揮を執る際には
堂々としたよく通る大声を発し、話しぶりにもたいへんな威厳が備わっていた。

将官たちは概して老齢で、好々爺のごとく微笑みと温かいソフトな話しぶりが印象的だっ
た。しかしその表情に浮かぶ意志力や精神統一の力は他の者に見出すことができないほど
重厚だった。

階級が上がるにつれて人当たりが柔らかくなっていく日本軍将校の精神的な傾向が、日本
軍政組織と頻繁に接触したプリブミたちを強く印象付けたようだ。


ラトゥアディルのシナリオは実行されて、白人の支配は終わった。解放者は最初、蘭領東
インドという呼称を公式にインドネシアに変え、インドネシアラヤを歌い、紅白旗の掲揚
を許したが、「君が代」と「日章旗」に並べることを条件にした。白人がいなくなったた
めに空白になった公職にインドネシア人を就任させたが、各ブロックの最高位の座は日本
人が握った。ムラユ語を公用語にしてそれをインドネシア語と呼んだが、書き言葉の綴り
はオランダ時代のままだった。

日本軍政初期の蜜月時代、インドネシア人は解放者の日本人に親愛の情を寄せ、その状況
の変化を喜び、民衆は日本兵に手を振ったりしてなついた。ところがしばらくしてから、
インドネシアラヤも紅白旗も禁止された。そりゃそうだろう。団体や組織が公式行事とし
て行うときにそれを守らせることはできても、民衆生活の中でそれを実行させるのはまず
不可能なのだから。しかし青年層や知識層は日本軍政の本性をそこに垣間見たように思っ
たという話だ。


インドネシア人の側にも誤解と言うか過剰な期待があったのは間違いあるまい。インドネ
シアを白人支配から解放するために来るという話は昔からインドネシア人の間でジョヨボ
ヨの予言にからめて語られていたのだし、日本人もタテマエとしてそのように語ったのだ
から、そこだけを見るなら解放者の到来とその成功は善事なのである。そしてそれらはそ
の言葉通りに実現した。

するとこんな期待がインドネシアの民衆の間に生まれたかもしれない。われわれが白人支
配のくびきから解放されたのは善事だ。善事を行うのは善人である。善人の統治は善政に
なるだろう。しかし日本軍がインドネシアにやってきて白人を追い出し占領した目的は別
のところにあった。インドネシア人にとっての善人になるためにしたことではない。

考えてもみればいい。5万5千人という大量の人員をジャワ島に運び、ジャワ島防衛軍と
7日間戦争をして白人を降伏させた。その軍事行動にどのくらいの戦費がかかったのだろ
うか?そのすべてを自腹でまかない、インドネシアの人民を白人支配から解放したから自
分たちはもう用がない、という論理を国家が持つことはありうるだろうか?その後から経
済問題が付いてくることを当然と思わなければならないのではあるまいか。ましてや蘭領
東インド進攻は諸方面に広範囲に伸びきった戦線を維持するための資源庫を当て込んで建
てられた当初からの戦略であり、コメや石油をはじめとする諸資源を運び出すことはもち
ろん計画通り行われ、最低限の量しかインドネシア人のために残されなかった。

解放の代償はそのようにしてインドネシア人に背負わされたのだが、楽観論でものごとを
見ていたインドネシア人はこの現象の裏側にあるメカニズムを悪意で眺めた。350年間
の白人支配時代にはひどいこともあったが良いこともあった。三年半の日本時代はひどい
ことばかりが続いた。続いたのも当然だ。なにしろその三年半の全期間が戦争中だったの
だから。そんな比較対照をされたなら、短期支配者の評価が悪くなってもおかしくあるま
い。物資不足と困窮は日本時代の方がひどかったと語るコメントは少なくない。[ 続く ]