「最初の将軍(4)」(2023年02月23日)

作戦司令部はムト村ビビス部落の部落長の家に置かれ、ヨグヤカルタ地区の西部・南部東
部・北部・市街区を一斉に制圧するため四つの部隊が攻撃をかけることに決まった。前夜
から小人数の部隊が地区内への潜入を開始し、ヨグヤの市内に敷かれていた夜間外出禁止
令の解禁を知らせる午前6時のサイレンを合図にして一斉攻撃が開始された。

スハルト中佐も西部地区制圧部隊に加わってマリオボロ通りまでの攻撃を指揮した。およ
そ6時間でヨグヤのNICA防衛部隊が沈黙すると、攻撃部隊は一斉にヨグヤから引き上
げていった。ウォノサリのラジオ局がこの勝利を電波に乗せて大々的に宣伝した。

3月1日正午ごろからNICA軍の報復行動がヨグヤに向けられたが、そのころには国軍
総攻撃部隊は姿を消したあとだった。NICA空軍機がやってきて、さらに装甲車両を先
頭にNICA軍兵がやってきたとき、国軍ゲリラは戦場にひとりも残っていなかった。N
ICA空軍機はウォノサリのラジオ局に攻撃の矛先を向けたと語られている。

この総攻撃の中でちょっとしたエピソードが生まれた。第一大隊第三中隊指揮官コマルデ
ィン中佐の部隊が2月29日にマリオボロ通り南側の郵便局地区で攻撃を行ったのである。
連携の得られない孤立した行動だったから、NICA軍に反撃されてすぐに後退したそう
だ。その年はうるう年だったのだ。

ヨグヤカルタ中央郵便局の前に建てられた大きいモニュメントがその3月1日総攻撃の勝
利を記念するものだ。この記念碑のオープニングは1973年3月1日、スハルト大統領
によって行われた。何やら自画自賛めいた印象は拭えまい。


国連安保理事会の勧告に応じてNICAと共和国の会談が再開され、1949年5月7日
にルム・ロイェン協定が締結されて停戦が成立した。6月になってヨグヤカルタが共和国
に返還され、NICA軍は6月29日にヨグヤからの撤退を完了した。それと入れ替わり
に国軍がヨグヤの町々に入って来て治安と秩序を統制した。共和国正副大統領が首都に戻
ったのは1949年7月6日だった。

国軍総司令部も7月10日にヨグヤカルタに復活した。スディルマン総司令官はおよそ7
ヵ月間のゲリラ活動を終えて首都に復帰したのである。7月1日にソボを出発した国軍主
力は次のようなルートを取って戻って来た。ソボ→ティルトモヨ→カランブンダ→ポンジ
ョン→カランモジョ→グロゴル→ガリ→ガディン→パトゥッ→ピユガン→プランバナン→
ヨグヤカルタ

しかしこのインドネシア国軍初代総司令官の健康はひどく蝕まれてしまっていた。195
0年1月29日に中部ジャワ州マグランでかれは世を去った。まだ34歳の若さだった。
国軍の揺籃期を率いた最初のこの若き将軍はヨグヤカルタのクススマヌガラ英雄墓地で永
眠している。[ 続く ]

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