「最初の将軍(3)」(2023年02月22日)

米国・オーストラリア・ベルギーの三ヵ国で構成された三ヵ国委員会と称する紛争調停団
がNICAとインドネシア共和国間の武力紛争を仲裁するために1947年12月8日か
らジャカルタ湾に停泊中の米国海軍兵員輸送船レンヴィル号の船中で会談を行い、レンヴ
ィル協定という名のもとに停戦が実現した。しかしその後に続いたNICAと共和国間の
国家形態に関する会談は平行線をたどり、NICAはふたたび共和国を武力潰滅させる姿
勢をあらわにした。

1948年12月18日23時30分、オランダ側はレンヴィル協定を認めず協定内容に
拘束されないとの表明を共和国と調停団に通知し、共和国の首都ヨグヤカルタの軍事制圧
を19日午前6時に開始したのである。最初にNICA空軍機がマグウォ飛行場を制圧し、
NICAの陸軍部隊がヨグヤカルタへの侵入を開始した。

ジャカルタの共和国代表部はNICAの協定破棄をヨグヤカルタに連絡しようとしたが、
電話線が切断されていた。NICAが開始したこの第二次軍事攻勢は何の準備もなされて
いなかったヨグヤカルタの防衛線をあっけなく突破し、共和国正副大統領は逮捕されて別
の土地に幽閉された。


その事態に対応して、共和国側の政体維持システムが発動した。スマトラにシャフルディ
ン・プラウィラヌガラを首班とするインドネシア共和国政府が即座に発足し、インドネシ
ア共和国緊急政府を宣言した。

ヨグヤカルタに総司令部を置いていた国軍もNICAに征服されたその地を落ち延びなけ
ればならなくなった。独立を維持するために国家の軍隊としてゲリラ戦を行うのである。
国家の軍隊は総司令部を持たなければならない。おまけにそのような状況下にスマトラの
政府がジャワの民生に何かを行なえるはずもない。ジャワにも臨時行政府が必要になるの
は明らかだ。

12月22日、国軍ジャワ地域司令官AHナスティオン大佐はジャワ島が共和国軍事政府
の統括下にあることを発表した。


1949年1月28日、国連安保理事会がインドネシアの紛争終結を求める勧告を発表し
た。オランダは全軍事行動を停止し、インドネシアはゲリラ活動を停止すること。194
8年12月19日以降に逮捕したすべての政治犯をオランダは釈放すること。共和国政府
指導者を早急にヨグヤカルタに戻して、インドネシアのゲリラ活動を停止させること。な
どの決議事項が発表されたが、なかなかすぐ実行に移されるものでもない。

国軍側はジャワ・スマトラでゲリラ戦の戦線拡大を図り、NICA軍を消耗戦の中に引き
込もうとしていたのだ。おまけにジャワの国軍部隊も連携を強化して、NICAに一泡吹
かせて世界中に共和国が健在であることをアピールするために、首都ヨグヤカルタ制圧作
戦が計画された。後に3月1日総攻撃と呼ばれて国軍史に燦然と輝く大勝利となり、第二
代共和国大統領になったスハルトの軍歴を黄金の光で彩った軍事作戦がそれだ。そのとき、
スディルマン総司令官がスハルト中佐に3月1日総攻撃の作戦指揮を執るよう命じたので
ある。[ 続く ]