「最初の将軍(6)」(2023年02月27日)

ひと月以上が経過し、ついにスプリヤディの登場を諦めたTKR指導部は1945年11
月12日にヨグヤカルタのゴンドクスマンに設けられた総司令部で民主的な選挙を行い、
そのときバニュマス第5師団長だったスディルマン大佐が総司令官に選ばれた。参謀総長
にはウリップ・スモハルジョ少佐が選任された。スディルマンは大将、ウリップは中将に
昇格してその任に就いた。

中部ジャワ州プルバリンガで1916年1月24日に生まれたスディルマンはそのとき弱
冠29歳だった。その後歴代の国軍総司令官が誕生しているものの、その最年少記録を破
った人物はいない。スカルノ大統領による公式叙任が1945年12月18日になされて
いるのは、アンバラワ戦でスディルマンが戦場から動けなかったからだろう。新任の総司
令官は戦闘中の軍団を率いるために最前線で指揮を執っていたのだ。


10月20日にスマランに上陸して来たAFNEI軍がNICA軍と共に内陸部に進出し
て来た。AFNEIはアンバラワのあと10月26日にマグランに達して抑留者を解放し
たが、NICAは抑留者に武器を渡して共和国を名乗る反乱者を壊滅させるように煽った。
おかげで衝突事件が続発した。ヨグヤカルタに近いマグランがNICAの拠点になっては
共和国にとって一大事だ。それを放置できるものではない。

TKRクドゥ第1連隊長サルビニ中佐はその状況を抑え込むため、全部隊にマグランへの
包囲攻撃を命じた。しかしスカルノ大統領はAFNEI軍に終戦処理を完遂させることが
優先事項であると考え、スマラン上陸軍司令官と会談してマグランとアンバラワからAF
NEI軍を撤退させることに決めた。軍事衝突を回避しようとしたのだ。

ところがスマランへ戻りつつあったAFNEIの行く手を地元民兵合同部隊がジャンブ村
で遮った。方角を替えたAFNEI軍を再びギピッで、今度はTKR第1大隊が遮った。
その結果AFNEI軍はアンバラワ近くの二つの村を占領し、アンバラワに依拠して勢力
を張る構えを見せたから、その村を解放するためイスディマン中佐率いる部隊が攻撃して
戦闘が始まり、イスディマン中佐は戦死した。

AFNEIは戦車を使い、更にスマランのカリバンテン飛行場から飛来した戦闘機による
銃撃で国軍側に大きい損害を与え、インドネシア側を完敗させた。イスディマン中佐を戦
死させたのも、Pー51マスタングの銃撃だった。国軍側はカリバンテン飛行場に矛先を
向けた。程なくして、ゲリラ部隊がAFNEIの軍用機を総なめにするのに成功し、その
とき以来アンバラワのAFNEI軍は空からの応援が期待できなくなった。


腹心の部下イスディマンを失ったことが、バニュマス第5師団のスディルマン師団長に戦
場に下ることを促したのである。自分の指令を正しく解釈して実現させる能力を持つ者は
ほかにいないと考えたのかもしれない。かれは直々に軍団を指揮するためアンバラワに向
かった。

11月23日、AFNEIはアンバラワでインドネシア国軍と対決した。街中を通って要
塞に達している鉄道線路をはさんで、インドネシア側は北側を死守しつつ南側を制圧しよ
うとし、AFNEI側は南側の軍事施設を死守しながら北の奪還をはかった。国軍の各地
域部隊もアンバラワに向けて戦闘態勢を築いた。アンバラワのAFNEI軍は孤立無援で
包囲されたのである。


スマランのAFNEI軍司令部が救援部隊を派遣しようとしなかったわけではない。しか
しスマランの東側をパティの国軍、西側をクンダルの国軍が抑えていて南にしか動けず、
おまけにアンバラワへの通路に当たるウガラン〜バウェンの山岳地帯も東西をインドネシ
ア軍にはさまれていたのだから、救援部隊がアンバラワに達するのは至難の業だった。

アンバラワに作られた重厚な包囲網は近隣地域から集まってきた国軍と民間志願兵によっ
て築かれたものだ。かれらは続々とアンバラワの戦場に集まって来た。ヨグヤカルタから、
スラカルタから、サラティガ、プルウォクルト、マグラン、スマランなどから兵隊と民兵
がやってきたのだ。アンバラワ包囲網は厚みを増した。AFNEIは戦争捕虜になってい
た日本軍兵を再度武装させ、戦車を付けてインドネシア軍包囲網の後ろから攻撃させるこ
とまでした。挟み撃ちが行われた地区から、国軍はブドノに退避した。

アンバラワに集まった軍団を指揮するスディルマン師団長は、各地区で個別に行われてい
る戦闘の効果を最大限に高めるため、期日を決めて一斉攻撃を行うよう指令した。194
5年12月12日、日の出と共にアンバラワの周辺を埋めていた兵員と紅白旗が一斉に動
き出した。怒涛のような人間の海に押し寄せられたAFNEI軍の防衛線はあちこちで破
られ、大混乱が戦場を埋めた。すべての戦闘が終わったのは12月15日だった。

AFNEI軍敗残兵はスマランに落ち延びて行った。アンバラワの戦いにおけるインドネ
シア側戦死者は2千人、AFNEI側は百人超、そして75人がインドネシア側に処刑さ
れたと記録されている。[ 続く ]

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