「最初の将軍(7)」(2023年02月28日)

今、首都ジャカルタの儀典道路であるタムリン通りの南端と、南のクバヨランバル地区か
ら北上してくるスディルマン通りとをつなぐ、ドゥクアタスの橋のスディルマン通り側に
高さ12メートルの巨大な立像が建っている。

2003年に建てられたこのスディルマン将軍の像がジャカルタのスディルマン通りのシ
ンボルなのだ。かれは日々、足元を通り過ぎる大量の自動車の排気ガスにむせながら、タ
ムリン通りに並ぶ摩天楼のずっと向こうにあるモナスと大統領宮殿に向かって敬礼を続け
ている。それが何を意味しているかについては、個々にご推察願いたいと思う。


さすがに国家の大英雄として首都の目抜き通りに奉られているわけだが、かれはジャカル
タに縁のない人物だったという話もある。かれがジャカルタを訪れたのは生涯でただ一度
だけであり、後にも先にも1946年11月1日のジャカルタ訪問だけだったというのが
その説で、これは首都史跡再開発会議議長の見解だからそれなりの根拠を持っているにち
がいあるまい。

だが別の記事には、ボゴールでペタの訓練を受けたことに関連してジャカルタを訪れてい
る話が記されている。そちらの説の主張を見ると、共和国独立宣言後にスディルマンがは
じめてジャカルタに足を踏み入れたのがその日だったという語り口になっていて、つまり
は国軍創設以来総司令部はヨグヤカルタに置かれてジャカルタと縁がなく、国軍最初の将
軍がジャカルタ訪問を果たしたのがその日だったということが強調されているようにわた
しには思われるのである。

国軍総司令部がジャカルタに移ったのは、1950年1月15日にオランダ王国東インド
軍がヴェルテフレーデンの総司令部をインドネシア国軍に明け渡した時だった。実質的に
はその年の7月25日が全プロセスの完了した日になったようだ。つまり最初の国軍総司
令官がジャカルタを訪れる日は二度と来なかったのである。


大日本帝国が無条件降伏して、終戦処理のためにAFNEI軍先遣部隊が1945年9月
15日にジャカルタに到着し、続いて同月22日に本隊が上陸した。10月2日にジャカ
ルタ市内で戦闘が始まり、激戦の末にジャカルタの重要地区を確保したAFNEI軍は1
0月12日にバンドンに進出した。バンドンでも戦闘を避けることができず、最終的に多
数の市民がバンドンを火の海にして町から去ったのが1946年3月23日。一方ジャカ
ルタのAFNEI支配地区外での散発的な闘争は12月まで続き、武装敵対者の大量逮捕
が行われてジャカルタはやっと平穏に戻った。市民の死者は8千人に達した。

AFNEI軍はスマランに10月20日に上陸した。10月15〜19日に行われた城戸
部隊とインドネシア国軍および民兵との衝突が終わった直後だ。地元行政者にとってはう
れしい来訪だったようだ。AFNEI軍はスマランの日本軍部隊を武装解除して戦争捕虜
にしたのだから。しかし結局はマグランで多発した暴力事件やアンバラワでの大会戦に向
かって進んで行くことになった。

スラバヤにAFNEI軍が上陸したのは10月25日だった。AFNEIがスラバヤ市民
に武装解除を命じたことが、NICAを撃ち払うために武装している市民を激怒させた。
スラバヤでも戦闘が始まり、最初は市民を主体にした戦闘だったが、途中から本格的な軍
隊同士の激戦に発展して、11月29日になって国軍はスラバヤ市外に押し出されたため
にAFNEIはスラバヤの治安を確保した。しかしスラバヤの外では、AFNEIが占領
した他の諸都市と同様に、戦争状態が継続したのである。


AFNEI軍は主要都市を確保して終戦処理を行い、後事をNICAにゆだねてインドネ
シアからの撤退準備を進めた。AFNEI軍首脳はインドネシアのいたるところでインド
ネシア軍との戦争が起こったのを遺憾とし、停戦協定を結ぶべく共和国とNICAを交え
て三者間の協定締結に努力した。停戦の合意がなされなければ、インドネシアからの撤退
は不可能なのだから。

1946年9月20日にジャカルタで三者協議が開かれ、9月30日まで続けられたが合
意に達しなかった。イギリス政府がロード・キラーンをアジアにおける戦後秩序の構築責
任者に任じたため、停戦協議のかじ取りはこのイギリス貴族が担った。[ 続く ]