「塩のマドゥラ島(2)」(2023年06月06日)

マドゥラ島で、西はサンパン県から中部のパムカサン県、そして東端のスムヌップ県に至
るまでの南海岸部にたくさんの塩田が設けられている。マドゥラ島に与えられた塩の島と
いうその看板を支える大黒柱がその地域だ。VOCはその地域をzoutnegorizenと呼び、
後のオランダ東インド政庁はzoutlandenと呼んだ。オランダ語zoutは英語のsaltだ。

東ジャワ北岸部のジャワ海に面する海岸部からマドゥラ島南海岸部に至るコーストライン
では、11世紀と言わず10世紀になる前から良質の食塩生産が盛んに行われ、その製品
がジャワナからスラバヤまでのジャワ島北海岸線にできたさまざまな商港からヌサンタラ
一円に積み出されていた。17世紀には、ジャワの商港で取引される優良商品として塩は
タバコ・米と並び称されるものになっていた。そしてマドゥラ島はその優良商品供給者と
して重要な位置を占めていたのである。

JPクーン総督がマルクからVOCアジア本部をジャワ島に移したことで、ジャワ産の物
資がVOCの取扱商品になる道がいとも容易に開かれた。スパイスの取扱いだけで終わる
ことに飽き足らなかったクーンの敷いた路線をその後のVOCは忠実に実行に移し、あた
かもただの会社が後に出現するコロニアリズムを先取りして展開する姿をわれわれは目に
することになった。おかげで後世のひとびとの間で、VOCがただの会社であったという
本質と東インドで行われた実態を結び付けることに困難を抱くことすら起こったようだ。


VOCがマドゥラの統治システムの最高パワーを握ったとき、塩の生産と流通を独占すれ
ば巨大な利益を計上できることは明白だったものの、それを実行に移すだけの人手が不足
していた。

経営を行わないで利益を得る方法は貢納だ。そしてその時代の貢納が税と呼ばれたことも
一般的な現象だった。既存の生産と流通には手を出さず、既存の統治システムを使って税
を課し、徴税者を任命して現場で金銭貢納を強いるのである。そして華人がその徴税者に
なった。

華人は華人で流通分野を支配しようと努め、その企てを成功させるために生産者がしばし
ば追いつめられることも起こった。このパターンは産品が塩であれ何であれ、たくさんの
分野で同じように行われたから、後の時代にインドネシアで人種間の軋轢を生む原因にな
った。


1861年に塩の価格が高騰した。海岸に土地があれば、黄金の粒さながらの塩を作るこ
とができる。新たに塩田が作られ、また土地を塩田用に貸していた者の間からも、自分で
塩を作って儲けようとする者が現れた。土地の権利に関する紛争が激増した。紛争が起こ
った塩田では作業が行われなくなる。遊んでいる塩田をなくすには、土地の権利者を法的
に確定してやることだ。

社会的有力者が行う不正がどれほどはびこっただろうか?弱者庶民が泣きを見る結末は決
して少なくなかったのではあるまいか。東インド政庁はその延長線上で、塩の生産をマド
ゥラ島にしぼることにした。過去の実績を踏まえて政治的に生産センター機能を持たされ
たのだ。塩に関するあらゆる優遇措置がマドゥラ島に向けられ、他地方の塩生産は行政の
バックアップが得られなくなった。

19世紀半ばごろのマドゥラ島は、オランダ東インドにおける塩生産の大センターになっ
ていた。1862年のマドゥラ社会の状況を記した記録によれば、塩生産者は他のマドゥ
ラ人よりはるかに裕福な暮らしをしており、贅沢品を買う余裕を持っていたそうだ。

しかしオランダ東インド政庁がマドゥラの塩に搾取の手を伸ばす日がやってきた。搾取の
体制作りは段階的に時間をかけて行われた。マドゥラ人の利益が削り取られ始めた。

カリアガッの塩田用地は取り上げられ、政庁は工場を設けてそこを製塩センターにした。
好景気に湧く産業センターはそこに関わるすべての者に?栄のしぶきを浴びせかけた。夜
な夜な煌々たる灯りの下で賑わうカリアガッの町はスムヌップの町より繁華だと評された
そうだ。[ 続く ]