「塩のマドゥラ島(4)」(2023年06月08日)

インドネシア共和国が独立し、更にオランダ資産が国有化され、オランダの官民が運営し
ていた大型事業は共和国の国有事業体が引き継いだ。マドゥラの製塩産業は国有事業体ガ
ラム株式会社PT Garamが引き継いだ。そのとき、ガラム社はマドゥラ島に製塩工場ふたつ、
6千Haの塩田、ジャワ島のルンバン・トゥバン・パングル・パチタンに8百Haの塩田
を自社資産として持った。

ところが50年の期限でオランダ東インド政庁が借地した土地は、期限が満了したにもか
かわらず旧所有者への返還がなされなかった。その土地はガラム社の自社所有地にされて
しまっていたのである。

ピンギルパパス住民1,113戸、マルガン1,400戸、カランアニャル90戸のほぼ
7割が塩生産期の6〜11月、パスルアン・グルシッ・スラバヤなどにあるジャワの塩田
に移って季節労働を行っている。かれらの出稼ぎ労働は一家が丸ごと別の土地に移住して
暮らすから、当然子供も同行する。子供たちはその期間、小学校を休まざるを得ない。小
学生は一年の半分を休学することになる。

その半年間の塩田労働者としての稼ぎはせいぜい3百万ルピア程度であり、出稼ぎ期間中
の暮らしは竹編み壁の掘立て小屋で寝起きする日々になる。


インドネシア共和国になってからの数十年間は、マドゥラの食塩生産者の収入はジャワの
米生産者のそれよりも3倍大きかった。ガラム社のお膝元であるカリアガッは毎夜煌々た
る明かりの下で夜市さながらの賑わいが繰り広げられ、県庁所在町スムヌップよりもはる
かに栄えている印象を見せつけていた。

1980年代までガラム社は栄耀栄華のシンボルとされ、県下で高い社会ステータスを得
ていた。婿を持つならガラム社従業員が第一優先だった。一般のマドゥラ人よりも収入ラ
ンクが一段上であり、その経済面の評価が社会ステータスを押し上げていたのだ。

70〜80年代の塩の価格は1キロが米およそ3キロに相当した。だがその後、塩はスタ
ーの座から転落して行った。今では塩12キロが米1キロに相当している。いつ何が原因
で転落が始まったのだろうか。それに関して、スムヌップの塩生産者財団役員の語る話は
次のようなものだった。

1975年にオルバ政府が塩の生産に使われていた国有地をガラム社に払い下げた。ガプ
ラ郡150Ha、サロンギ郡とカリアガッ郡が140Haだった。これはグルシップティ川を
せき止めて、現存する塩田への海水供給の便を高めるのが目的だった。ただし、その計画
が2年間で実現されなければ、土地は元の所有者に戻されることになっていた。

それまで塩生産者が製塩に使っていた土地が取り上げられて国有事業体の所有地にされた
のである。反対する生産者たちに国家体制を危うくする謀反人の烙印が捺され、共産主義
者と言われ、あげくのはてに刑務所入りといったオルバスタイルの措置が執られた。だが
結局、ガラム社の計画は実現されなかったのだ。おまけに、塩生産者に土地を戻すという
動きを誰も行わなかった。ガラム社は現状の上にあぐらをかいた。

一部の塩生産者が土地返せの運動を始めた。塩生産者は法廷に告訴した。一審は勝ったが
二審で敗れた。再審請求を出しているものの、動きは止まっている。おまけに塩生産者も
決して一心同体でなかった。ガラム社が塩生産者財団の一部のメンバーに土地を戻したこ
とで、塩生産者も仲間割れを起こした。このコンフリクトによって塩の生産販売を独占し
ている国有事業体のガラム社に長期の生産低下が起こった。

最近でも政府はガラム社に年産3百万トンレベルの目標を与えているが、実績は百数十万
トンで推移している。マドゥラの塩生産者たちは生産活動のやる気を失い、現生産者の子
供たちの中に親の家業を引き継ごうと考える若者はほとんどいなくなっている。まるで、
海に囲まれた島嶼国家でありながら、塩は生産者に繁栄と福祉をもたらさない国に向かっ
て歩んでいるかのような皮肉な状況だ。[ 続く ]