「クンタオ(28)」(2023年12月29日) ジンティはウォノソボで、中部ジャワのあちこちで活躍している華人の貴顕たちと知り合 い、みんなに好かれた。クンタオの達人でありながら腰が低く、他人に不快感を与えない ように実に自然に振舞うことのできる人間性が好まれたのだ。そんなひとびとがジンティ を自邸に招いて何日も滞在するように勧めた。トゥマングン、バトゥル、マグラン、パラ カンなど、近隣のほとんどの町をかれは訪れた。 しかしウォノソボでの暮らしはあまり長く続かず、ジンティはそのあとパラカンに移り住 んで、その町で1921年に没した。享年66歳だった。 このパラカンの町はParakanと綴られてインドネシア語でパラカンと発音されるが、ジャ ワ語では/k/が子音でなく声門閉鎖音のシンボルとして使われていて、パラ’アンと発音 されている。 ムラユ語に摂りこまれたアラブ語源の単語も、アラブ語のハムザ(声門閉鎖音)が/k/の 文字で表記されたために無声になるのが正式な発音だった。だからrakyatの/k/は音がな いのが正式発音だったのだが、現代インドネシア人はもうそんな区別をしなくなっている ように見える。 ともあれ、インドネシア語文の中にParakanという地名が出て来ると非ジャワ人はそれを まず例外なくパラカンと読む。ところが、ジャワ人の中にはそれを固有名詞と捉えてジャ ワ語の原語発音通りにパラ’アンと読む人も出現する。正解が常にひとつとは限らないと いう現象がここにも出現するのである。 このパラカンのエリアは古マタラム王国時代に聖域とされ、チャンディや祭祀場を世話さ せるために住民に下げ渡された土地だったようだ。現在のパラカンという名称の由来はイ エーメンから来たイスラム師Kyai Parakなのだそうだから、ヒンドゥ=ブッダ時代は違う 地名になっていたのだろう。 ディポヌゴロ戦争が終わったときに反乱軍兵士の多くがこの地方に身を隠したという話が ある。多分それは事実だったように思われる。なぜなら、オランダ東インド政庁が反乱の 気分を骨抜きにするために、アヘンをこの地方に蔓延させて住民を中毒者にすることに格 別な骨折りをしたと言われているのだ。 華人がこの町にたくさん住むようになったために、中国寺院Hok Tek Tong福徳堂が184 0年に建設された。その後も華人コミュニティがどんどん大きくなってジャワ島で中華文 化の雰囲気が濃厚な町になり、いまでは東のラスムLasemと西のこのパラカンがジャワ島 の中華タウンとして双璧をなしている。 ジャワ島中部地方で、クンタオ師の頂点グループのひとりとして名前を高めたジンティは、 パラカンでも道場を開いてクンタオを懇切丁寧に教えた。かれの指導は、人間の力という ものの物理的な原理を分析して合理性を持たせたものになっていたこと、弟子の体格や身 体的特徴に応じて本人のもっとも役に立つクンタオ技術を教えたことなどがその骨子にな っていたため、基礎体力を付けさせる時期が過ぎたあとの弟子の進歩には目覚ましいもの があった。パラカンの華人社会上流層からもジンティのもとに学びに来るひとびとが続出 した。その中のひとりに地区役人の職に就いているテー・ホアイヒンがいた。ホアイヒン もジンティの指導下に高度なクンタオ技術を身に着けて拳豪のひとりになった。 1905年半ばごろ、オランダ東インド植民地軍がパラカン郊外の原野で陸上演習を行な うためにやってきて露営した。パラカンの町中でも兵士が右往左往するようになった。そ の時代、兵士には賭博が公認されていて、兵士同士はもとより一般人を相手にして賭博を 行なうことすら許されていた。兵士が行なう賭博のほとんどがサイコロ博打だった。東イ ンド植民地軍兵士というのはマジョリティがプリブミで構成されていることを忘れてはな らない。[ 続く ]