「クンタオ(29)」(2024年01月04日)

露営している兵士に自由時間が与えられると、かれらはパラカンの町中に来て道路脇に賭
場を張った。道路脇に白い布を敷いて、その上でサイコロ博打が行われる。胴元になりた
い兵士もたくさんいるから、一枚の布の上に三つも四つも賭場ができ、異なる種類のサイ
コロ博打が並んで、博打好きには便利な様相が展開される。

ある日、プチナンのど真ん中で中華寺院に向かう大通りの両脇に兵士の賭場が数珠つなぎ
になった。レッナンチナや地区役人の邸宅の門前であってもおかまいなしに賭場にされ、
家人は門前の人ごみを潜って出入りしなければならない。賭博好きの華人やプリブミ、人
間が集まっているのを見に行くことの好きな華人やプリブミが老若男女の別なく集まって
来て大通りは人間で満たされた。


妻と幼い娘を連れて街中を散歩していた政庁監視官のハルトマンがプチナンの大通りまで
来てその様子を目の当たりにし、立腹した。路上を往来することが不可能になっているの
だ。その原因は通りの両脇を埋めている兵士たちの賭場だ。監視官は兵士たちに賭博をや
めろと言った。賭博がいけないのではなくて、大通りがこんな状態になっている原因がお
前たちにあるのだと説明したが、それは路上をいっぱいにしている住民に責任があるので
あってわれわれは悪くないと兵士たちは反論する。

ハルトマンの一家三人には従卒がひとり付いているだけであり、大通りで賭博開帳してい
る兵士は何十人もいる。しかし監視官は行政の権威を示さなければならないと思った。自
分の傍で口から泡を飛ばしながら反論して来る兵士の頬を張り、すぐにこの場を片付けて
露営場に戻れと怒鳴った。ところがプリブミ兵士たちはオランダ人行政官に恐れ入り畏ま
ろうとしないで、監視官に反抗し始めたのだ。監視官の一家を身体で押し返そうとしたか
ら、小さい娘が跳ね飛ばされて側溝に落ちた。従卒は即座にお嬢ちゃんを抱え上げると監
視官の妻の手を引いてすぐ傍のレッナンチナの邸宅の表門から中に逃れた。

地区役人テー・ホアイヒンの邸宅もその大通りに面していた。大通りの少し向こうの方で
騒ぎが始まった気配を感じたホアイヒンが外に出て見ると、監視官閣下がひとりで兵士た
ちに包囲されているのが見えたから、かれは現場に向かった走った。そして兵士たちに押
されて少しずつ後退している監視官の横に入って数人の兵士を押し返した。さすがに白人
高官に手を出すことを控えていた兵士たちも、チナ人が割り込んで来たので腹立ちをそっ
ちに向けた。こいつをベコベコにしてやろう。

それが地区役人であることも知らぬまま、兵士たちは拳をその華人に振るった。ところが
兵士の拳はすべてはたかれてひとつも華人の身体に打撃を与えることができず、反対に突
き飛ばされて数人の兵士が地べたに転んだ。兵士たちは一歩ひいた。そのすきに監視官は
現場を逃れた。

地区役人と30人くらいの兵士の格闘が路上で始まったのだ。それまでは監視官と兵士の
押し合いをすぐ脇で見物していた住民たちもとばっちりを恐れて脇から離れ、距離を取っ
て遠巻きにした。そこでまた群衆の間に押し合いが起こり、女子供は周辺の邸宅の門から
中に逃げ込んだ。急いで邸宅の門に閂をかけた家もあれば、群衆が逃げ込んでくるのに任
せて何もしなかった家もある。

兵士たちは人数をたのんでたったひとりのホアイヒンを撃ち倒そうとしたのだが、巧みに
攻撃をかわして逆襲し、兵士たちを路上に転がすクンタオの達人にひとつの打撃すら与え
ることができない。そうやっておよそ20分が経過したころ、軍の高級将校がひとり騒動
の現場に馬でやって来た。それを見た兵士たちはクモの子を散らすように現場から姿を消
した。しばらく後にこの騒動の取調べが軍内部で行われ、軍法会議で数人の兵士に罰が下
されたそうだ。

後日、スマランの新聞Warna-Warniがパラカンの事件を詳報し、地区役人テー・ホアイヒ
ンの活躍を絶賛した上、高名なクンタオ師ロウ・ジンティから優れた技術を学んだ成果が
それだったとジンティの名前までほめそやした。[ 続く ]