「クンタオ(30)」(2024年01月05日)

ジンティはパラカンにウォノソボで得た妻を伴って移り住んだものの、妻はパラカンで世
を去った。パラカンの友人たちがまたジンティに妻を持つように勧めた。自分は高齢にな
ったからもう家庭の執事はいらないと断ったものの、高齢だからこそ自分の身を見守って
くれる家族が必要なのだと説得され、プリブミの女を妻にした。ところが数年後にこの妻
が不倫を犯したためにジンティは離縁した。そのあと、マグランに住む後家の華人女性を
妻に娶ったものの、この妻は数年後に記憶喪失になってしまい、病院住まいをさせなけれ
ばならなくなった。

ジンティ自身も中部ジャワ州トゥマングン県パラカンを終の棲家にしたのである。かれは
子孫を残さず、家族もなく、友人たちに囲まれて1921年に世を去った。

パラカンに移ったジンティは最初、市内ガンブロッ地区の商人アン・チェンの家で厄介に
なり、後になってホー・ティアンビーの世話を受けることになった。

市内のドゥマガン通り16番地にある総面積2千平米の敷地に建てられた、中華様式を顕
著に示しているホー・ティアンビーの邸宅はオランダ人F.H.スタウトから300フロ
ーリンで購入したものだった。そのオランダ人は1900年代初めごろにパラカン〜スチ
ャン鉄道線路敷設工事が行われたとき、工事監督人としてパラカンに住んだ人物であり、
スタウトは自分の居所としてその家を持ち主のマス クルトスミトから450フローリン
で買い取った。マス クルトスミトはその家を1894年12月5日に村役人から購入し
たそうだ。

ティアンビーはジンティのために自分の敷地内にパヴィリウン(離れ屋)を建てた。パヴ
ィリウンは1919年1月19日に完成した。ジンティはそこで拳道武館を催し、パラカ
ンのひとびとにクンタオを教え、ティアンビーの息子ホー・ティッチャイも愛弟子のひと
りになった。クンタオ学習の場の外でもそのティッチャイが老齢の師匠の世話を誠意を尽
くして行った。ジンティもティッチャイを愛し、この弟子を自分の子供として扱った。
ジンティが生涯を閉じたのはそのパヴィリウンであり、ホー家のひとびとがその末期を看
取ったのである。


地元のひとびとにOmah Tjandie Gotong Rojongと呼ばれた母屋にはホーの一家が住んでい
たが、1990年代にホー一家がジャカルタに引っ越したときに親族がそこを買い取って
博物館にした。

博物館の名称はパラカン中華プラナカン博物館Museum Peranakan Tionghoa Parakanとな
っていて、ジンティの名前は使われていない。つまり設立者はジンティをテーマにした博
物館を作るのでなく、ジンティをパラカン華人のひとりと捉える視点でその博物館を作っ
たと解釈できる。この博物館の中には拳豪ジンティの残した中国様式の武器・ジンティの
写真・その他の道具類なども展示されており、ロウ・ジンティという人物の紹介が大きい
ウエイトを占めている。

ジンティの教えたクンタオはホー・ティッチャイを通して後世に伝えられた。全ジャワ島
のイルムシラッ界にGaruda Emas dari Siauw Liem Payという名で知られたジンティの拳
道はPerguruan Kungfu Garuda Masという流派名称で今日も続いている。


ロウ・ジンティから少し下の世代にやはり福建人のロー・バンテンがいる。後に「爪哇五
祖拳之父」と謳われるようになったバンテンがスマランに住むようになった事情はジンテ
ィとまるで異なるものだったが、かれもジャワ島で名をあげた末に、終にジャワ島で生涯
を終えた。この拳豪の生涯をたどってみることにしよう。[ 続く ]