「ヌサンタラのコーヒー(77)」(2024年02月15日)

一方、ランプンのコーヒー農民のひとりは、19世紀初期にオランダ人がコーヒーを強制
栽培させて全収穫を差し出させたものの、当時の農民たちは自分たちもコーヒーを楽しむ
術を見出した、と語っている。それは地面に落ちたコーヒーの実を拾って持ち帰ることだ
った。収穫物の納入作業が終わってその日の仕事が解散したあと、農民たちは地面に落ち
ている実を拾い集めた。地面に落ちている実の間に混じって、ムサンルアッの排泄物が転
がっていた。多分それも一緒にかき集めて持ち帰った者がいたのだろう。

こちらのプロットに従うなら、ルアッコーヒーの珍味を発見したのはプリブミ農民だった
ことになる。その情報がオランダ人トアンたちに漏れて、オランダ人の間で大ヒット作品
になり、ヨーロッパ向け輸出商品として商業路線の一画を占めることになったことが想像
される。

そのいずれであったにせよ、ルアッコーヒーがオランダ時代にヌサンタラで発見され、そ
の時代から既に高価な希少価値を持つ優れた飲料として名を輝かせることになった。とこ
ろがオランダ時代のルアッコーヒーがどのように扱われていたのかについての詳しい解説
がなかなか見つからない。いくつかの英語記事には、オランダ東インドのコーヒー輸出黄
金期にルアッコーヒーもヨーロッパに輸出されていたという文が見られる。

ところが、1991年にイギリスのコーヒー業者がコピルアッを紹介したことで西洋世界
で一躍脚光を浴び、それが現在に至っているという内容も記されていて、オランダ東イン
ドのコーヒー黄金期が終わった1930年代後半からの半世紀の間コピルアッは西洋世界
で完全に忘れ去られていたようにも解釈できる。


東南アジアで得られるこのルアッコーヒーは昔から有名だったが、グルメコーヒー愛好者
の間で流行するようになったのは1980年代だったとイ_ア語ウィキペディアに説明さ
れている。

わたしの個人体験を語らせていただくなら、わたしがインドネシアビギナーになった19
70年代前半のジャカルタで、わたしの周囲にいたインドネシア人でコピルアッの名前を
知らないひとはひとりもいなかった。コーヒー飲用がほぼ男の世界だったその時代、コー
ヒーなど飲まない女中さんでさえコピルアッの名前を知っていた。わたしの周囲にいた男
性たちはみんなそれを飲んだことがあり、わたしはかれらからコピルアッの手ほどきを受
けたのだ。

はじめてそれを飲んだときのわたしの印象では、たいへんソフトで軽い上品な味覚だった
ことを記憶している。いつも飲んでいるコーヒーの特徴である、あの胃をズシンと打つ衝
撃感が感じられず、そのソフトさをわたしは大きな違いとして感じたのだが、昨今口にす
るコピルアッからはあのとき受けた印象ほどの大きな差が感じられなくなっている。それ
は人間の側(個人の感受性)の変化によるものなのか、それともコーヒーの側の変化によ
るものなのだろうか?


ムサンルアッが食べる果実は、もっとも完璧に熟して一番美味しくなっているものが選択
されると言われている。かれらは本能の中にその選択能力を持っているのだ。だからコー
ヒー農園にやってきたルアッが食べるコーヒーの実は、熟し方が最高になっているものが
選ばれていた。そのベストの実がルアッの腸内発酵を経て美味いルアッコーヒーになるの
である。昔のルアッコーヒーには豆自体の品質が劣るものは混じっていなかったと言える
だろう。劣品質の豆でもルアッの腸を通過させればルアッコーヒーになるという考え方は
正道から外れているのではあるまいか。

その理論を実践するのであれば、檻に入れたルアッに作らせるルアッコーヒーは、ルアッ
を農園に連れて行って自由に実を選択させる方式にしなければならないだろう。そうしな
いかぎり、昔自然に得られていたルアッコーヒーと現在人工的に作られている檻ルアッ製
のものが同一品質になるわけがない、と言うと言い過ぎになるだろうか?

昨今ルアッコーヒーの名前で販売されている商品はほとんどが檻ルアッを使ったものにな
っているそうで、実を選択する自由が与えられていないルアッが作るルアッコーヒーの品
質が往時の伝説となったルアッコーヒーの味を再現しているかどうかについては楽観的に
なれないようにわたしには思われるのである。[ 続く ]