「海を忘れた海洋民族(10)」(2024年02月26日)

船体長18.29メートル、幅4.25メートル、高さ2.25メートル、排水量30G
T、マスト2本+第一斜しょうの合計3本の帆柱と左右両舷に船体より短いアウトリガー
を備えたサムドララクサ号は、インドネシアからインド洋を横断して26日間でセイシェ
ルに到着した。船は更にマダガスカル〜南アフリカを経てアフリカ西岸のガーナまでの航
海を総日数6ヵ月と8日間かけて果たし、8世紀のジャワ船と船乗りがインド洋を越える
力を持っていたことを実証したのである。2003年8月15日ジャカルタのアンチョル
マリーナを出発したサムドララクサは20,372キロの波涛を越えて2004年2月2
3日ガーナのテマ港に入港したのだった。

壮大なプロジェクトを果たしたこの船は、チャンディボロブドゥルに近い場所に建てられ
たサムドララクサ博物館に収められた。


サムドララクサのシナモンルート航海という企画を実現させたイギリス人やその友人たち
は、古代インドネシアのマタラム王国が渡洋船隊を持ってスパイス貿易を行なっていたと
考えてそれを実証して見せたわけだが、古代マタラム王国は農業国家でありスリウィジャ
ヤのような海洋国家ではなかったという見解がインドネシア考古学界の主流を占めている。
と言っても、海に出なかったということでなく、海上交易活動は豊富な農産物を売りさば
くための従的な手段でしかなかったというのがその主張だ。

古代マタラム時代に建てられたジャワの碑文はどれも農業に関わる内容を物語っていて、
交易や航海に関する内容はほとんど見られないのである。マタラムの農産物を手に入れる
ために外国商船がやってきた。マタラム王家はチルボン・インドラマユ・トゥガル・プカ
ロガンなどを商港にして、そこで交易を行わせた。やってくる船は東南アジア一帯という
近い場所から来る、ボロブドゥルのレリーフに見られるような中型のアウトリガー帆船だ
ったというのが主見解を構成しており、この説に従うならボロブドゥル船はインドや東南
アジア大陸部で作られた船という結論に向かう。

しかし異論は当然ある。スマトラ・マレーシア・タイなどに建てられた碑文の中に、古マ
タラム王国の威勢を示すものが見つかっている。サイレンドラ王朝はジャワの内陸部に閉
じこもっていたわけでなく、少なくとも通商や文化交流を海外諸国との間で活発に営み、
そのために航海を盛んに行ったと考えるべきだというのがこの派の主張なのである。


すべてインドネシア人が企画した航海もある。2009年にマジャパヒッ時代の船がマド
ゥラ島スムヌップで建造され、Spirit of Majapahitと命名された。この船が2016年
5月11日に日本に向けてジャカルタのアンチョルマリーナを船出したのだ。

2本マストそして船腹とほぼ同じ長さのアウトリガーを両舷に装備した、船体長20メー
トル、幅4.5メートル、高さ2メートル、総排水量20GTのこの船の建造コストは9億
ルピア近いものになった。この船は舳先が反りあがっているだけで、サムドララクサにあ
ったような第一斜しょうがなく、巨大な帆が2枚張られただけのシンプルな姿をしている。
マストの形態はボロブドゥル船と同じものになっていても、船上が構造物で満たされてい
たサムドララクサに比べてマジャパヒッ船ははるかに簡潔な様相を呈している。

本物のマジャパヒッ船は櫂漕ぎも行うジュン帆船だったためにアウトリガーが使われてい
なかったそうだが、11人のクルーで行うこの航海のために船の構造にアレンジが加えら
れたのだろう。

日本への行程はまずカリマンタン島ポンテイアナッを経てブルネイに向かい、そこからマ
ニラ〜高雄を経由して6月12日に沖縄に達した。琉球王家の宝物の中にジャワの波形短
剣クリスがあり、インドネシアの歴史学者は昔のマジャパヒッ船が琉球を訪れていたこと
を確信している。マジャパヒッ精神号の日本航海はその仮説を立証したことになるわけだ。
船は更に鹿児島〜鳥羽を経て東京に6月25日に到着し、この企画は成功裏のうちに終了
した。[ 続く ]