「海を忘れた海洋民族(11)」(2024年02月27日)

遠い昔にインドネシア人はアウトリガー付きの中型船でインド洋の荒波を越え、マダガス
カル島に達した。東方に向けては琉球や日本どころか、太平洋を横断してイースター島に
至っている。その航海能力を基盤に置いて、海上通商が活発化するのに伴い、大きい海軍
力を持つ海洋王国がヌサンタラに出現した。

ヌサンタラの巨大海洋王国はスリウィジャヤ王国(683〜1030年)を嚆矢とする。
義浄は書いた。室利佛逝Shih Li Fo Shihはその都コタラジャに要塞を備えている大国で
あり、たいへん強力な海軍力を有している。海上通商路の安全を確保する海軍力を強化す
るために、スリウィジャヤはその全支配領域に基地を設けて要員を配備した。

kekuatan penggandaと呼ばれたその軍事戦略は海上軍船隊の戦力を必要に応じて補充しバ
ックアップする体制作りと考えられ、スリウィジャヤの海軍力が他国を圧する強大なもの
になる原動力のひとつをなしたようだ。

室利佛逝の中古音発音はSyit lijH bjut dzyejHだそうで、現代中国語発音のShih Li Fo 
ShihよりもはるかにSriwijayaという原音に似ているように思われる。古代の発音に従っ
て書かれた漢字を現代中国語発音に変えてしまう世界のマスコミのあり方が、何かたいへ
んもったいない的外れなことをしているようにわたしには思えてしかたない。


スリウィジャヤが没落してからしばらくの間、ヌサンタラの海を制する覇権が姿を消した。
12世紀ごろまでの大商港はスマトラ島北部のサムドラパサイやバルス、そしてスリウィ
ジャヤ王国の港だったパレンバンやムアラジャンビであり、特に西方からやってくる船が
入るスマトラ島北部にイスラム教の浸透が見られた。またジャワ島北岸のバンテンやグル
シッも成長し、14世紀になるとマジャパヒッの王都にまで、ブランタス河を通ってやっ
てくる商船の姿が見られるようになった。

15世紀の華人である馬歓はパレンバンに入港したときの様子をこう書いた。船は淡水の
河口に入り、バンカ海峡に進んでから陸地に係留された。陸地にはたくさんの石の柱が設
けられている。ひとびとは小船を使って河を遡航し、町に入った。


12〜13世紀ごろ東南アジア海域に広がった通商網の中に大動脈が自然と形成された。
その航路はこんな路線になっていた。

[インド〜スマトラ航路]
[1] ベンガル湾を通ってインドの諸港と結ぶヌサンタラのさい果ての港はスマトラ島北端
のLamuriだった。そこからインド洋を南下してBarusに向かい、さらにスンダ海峡を抜け
てジャワ島のBantenやSunda Kelapaに達するルートがあり、
[2] 反対のマラカ海峡を抜けてバンテンやスンダクラパに達するルートもあった。
このルートはLamuriからKedah、そしてPane, Jambi, Pelembangへと南下し、最終的にバ
ンテンやスンダクラパに到達した。

[スマトラ〜中国航路]
[1] パレンバンからマラヤ半島東岸に向かう航路があり、Pahang, Trengganuを経てチャ
ンパに向かう航路が更に中国へと延びていた。
[2] トレンガヌを去ってからチャンパに向かう航路の途中で方向を変え、クメール王国の
都アンコールに向かうルートもあった。
[3] トレンガヌから更にマラヤ半島を北上する航路があって、Kelantan, Patulungを経て
からGrahiに達し、クメール王国との交易が行われた。

[ジャワ〜マルク航路]
[1] バンテン・スンダクラパから東方に向かう船はクディリ王国の支配下にある東ジャワ
の諸港に立ち寄り、
[2] そこから西カリマンタンのTanjungpuraに向かう航路と、
[3] マルクに向かう航路に分岐した。マルクに向かう船は東方に向けて、Bali、スンバ島
のBima、中部スラウェシのBanggaiを経てマルクの多島海に達した。[ 続く ]