「マルクの悲惨(5)」(2024年03月22日)

スルタン バアブラの治世下にテルナーテは域内覇権を掌握し、西洋人の干渉を受けない
独立国として黄金時代を迎えた。その影響力はマルク海域のほとんどの島からスラウェシ
島の一部にまで及んだ。とは言ってもアンボンのポルトガル人も、そしてまた父祖伝来の
仇敵ティドーレも軽視できない存在だ。そして案の定、ティドーレはテルナーテへの昔か
らの挑戦を復活させた。

戦争が終わってから1576年にティドーレのスルタンはアンボンを訪れてポルトガルと
の提携を申し入れた。1578年、スルタンはポルトガル人がティドーレに要塞を建てる
ことを許可してポルトガルの軍事力が常駐するように図った。

ポルトガルの側にも変化が起こった。1581年にイベリア連合が形成されると、スペイ
ン国王はマルクのスパイスをスペインが直接手に入れるようにフィリピンのスペイン総督
に命じたのである。テルナーテを奪取せよとの命令を受けてマニラのスペイン総督府は1
582年、スペイン軍船隊をテルナーテに向かわせた。船隊はテルナーテを攻撃したもの
の、伝染性疫病がスペイン軍を襲ったため、中途で投げ出さざるを得なかった。神風でな
くてウイルスにテルナーテは救われたようなものだ。


1583年にスルタンバアブラが没すると、息子の皇太子がスルタン サイッ・バラカテ
ィとして即位した。それからほどなくマニラからスペイン船隊が派遣されてきて、テルナ
ーテの領内にあるモティ島に布陣した。イギリス船がマルクまでやってくるようになった
ことがスペインの不安をかき立てたのだ。イベリア連合の既得権を守るためにテルナーテ
の防衛力を高めてイギリスに指一本触れさせないようにする。イギリス人がマルクに交易
ポストを設けるようなことを絶対にさせてはならない。スペイン側はかつてのポルトガル
要塞をスペイン人に使わせるようスルタン サイッに求めたが、スルタンは拒否した。

1593年、スペイン軍船隊が2千人の兵員を積んでマルクにやってくると、あちこちに
基地を設けて守備体制を固めた。テルナーテの主権侵害もいいところだ。各地に居座った
スペイン軍部隊を追い払うために、スルタンサイッは1596年にコラコラ船隊を出動さ
せて大掃除をした。

1596年にオランダ船がはじめてヌサンタラに到来してジャワ島とバリ島に寄港した。
1599年にはヴェイブランズ・ファン ヴァルヴェイクの率いる2隻のオランダ船がテ
ルナーテに初めて入港した。スルタン サイッはマルクにまとわりついているポルトガル
=スペインの横暴な振舞いを抑止するのにこの新来のオランダ人が役に立つだろうと考え
て、オランダ人を丁重にもてなし、会見した。オランダ側の記録には、スルタン サイッ
はユーモアあふれる敬虔なムスリム戦士だという印象が書かれている。

1601年にヤコブ・ファン ネックの率いる第二回テルナーテ訪問団がやってきた。オ
ランダとの接近を図っているスルタン サイッの姿はスペイン=ポルトガルの目の上のコ
ブになっていた。ヨーロッパではオランダとスペインの間で戦争が展開されているのだか
ら。

オランダ人がテルナーテに居座るようになる前にテルナーテを奪ってしまえということに
なって、1603年にスペイン=ポルトガルの軍勢がテルナーテに攻めてきた。ポルトガ
ルと組んだティドーレももちろんその攻勢の中に巻き込まれている。テルナーテは奮闘し
てなんとかそれを乗り切った。スペインのテルナーテ占領はまた失敗したことになる。
[ 続く ]