「マルクの悲惨(4)」(2024年03月21日)

テルナーテは国を挙げてポルトガル人に怒りを向けた。スルタンの位に就いた皇太子バア
ブラは、ポルトガル人を一人残さずテルナーテから追い出すことを誓った。全マルク人が
ポルトガル人に敵対するよう、マルク人の間でポルトガル人に味方する者が出ないよう、
かれはティドーレのスルタンの姉妹のひとりを妻に迎えた。マルク地方の中で戦争してい
るマルク人の諸王国に反ポルトガル連帯が呼びかけられて、両者はテルナーテ王国を支援
するために休戦してテルナーテ陣営で戦友になった。ジャイロロ、スラ、アンボンなどで
活躍してきた優れた軍司令官たちがスルタン バアブラの床几を囲んだ。

テルナーテの街中を埋め尽くした軍勢がソンジュオンバチスタ要塞を包囲し、要塞は外部
との連絡を完全に断たれた。バアブラはカピトゥン ロペスに呼びかけた。「裁判のため
に父王殺害犯を連れて出頭せよ」

反応を示さないカピトゥン ロペスに見せしめを与えるかのように、ポルトガルがテルナ
ーテに設けていた他の三つの要塞が攻撃されて瞬く間に陥落した。しかしバチスタ要塞は
沈黙を守っている。バアブラは要塞の中で餓死が起こらないように最低限の量でサゴを運
び込ませた。それはテルナーテ住民の中にポルトガル人と親族関係になった者が少なから
ずいたからだ。


この反ポルトガル陣営はイスラムでつながっていた。軍勢はハルマヘラのイエズス会本部
を攻撃し、またカトリックに宗旨替えしたバチャンの王をイスラムに戻させた。加えてア
ンボン攻撃のために6隻のコラコラ船隊を発進させた。

アンボン都督のカピトゥン サンショ・ドゥ ヴァスコンセロスは反ポルトガル勢の猛烈な
攻撃の前にたじたじとなり、各地のポルトガル要塞は陥落を防ぐだけで精いっぱいになっ
た。かれらが既にカトリック教徒にしてあったプリブミがかれらの側に付いてマルクにお
けるポルトガルの壊滅を防いだ。

ブル島へのテルナーテ軍の攻撃を一度は撃退することができたものの、アンボン人海軍指
揮官が率いた二次攻撃隊によってブル島のポルトガル人は撤退せざるを得なかった。ブル
島はテルナーテの手中に落ちた。


1575年にはマルク地方にポルトガル人が築いた地域的支配構造のほとんどすべてが崩
壊し、ポルトガル人に味方していたマルク人勢力も辺縁部に押しやられる状況になった。
ソンジュオンバチスタ要塞はその5年間包囲されて外界との接触が停止していただけであ
って、一度も攻撃されなかった。もちろん要塞内の人間は慈悲で与えられた最低限の食糧
で食いつなぐしかなかったわけだ。

状況を見極めたスルタン バアブラはバチスタ要塞の最高責任者に次の提案を出した。
「全員投降し、ポルトガル人はテルナーテから去れ。ポルトガル人のテルナーテでの居住
は認めない。だが外来者としてやって来ることは拒まない。テルナーテ生まれの者は王宮
がテルナーテを統治する唯一の政体であることを認めるかぎり、テルナーテに住んでかま
わない。」

要塞側はそれを受け入れ、戦争は終わった。バアブラは、父王殺害の関係者だけを残して
すべてのポルトガル人をマラカから迎えに来た船に乗せた。船はアンボンに向かい、それ
からマラカに戻った。テルナーテから追い払われたポルトガル人の多くはアンボンに移っ
たが、中にはマラカまでその船で戻った者もおり、あるいはアンボンで降りたが更にソロ
ルやティモールに向かった者もあった。父王殺害事件はテルナーテの国法に従って裁判が
行われ、犯人に刑罰が下された。[ 続く ]