「ヌサンタラのコーヒー(101)」(2024年03月22日)

コピシウィがいったいいつからそんなシンボリックな機能を与えられて使われはじめたの
かを知っているひとはラナ人の中にもいない。だれに尋ねても、ずっと昔の先祖の時代か
らだという答えが返って来るだけ。はっきりしているのは、奥地の高地人が大自然との調
和的共存の中で生み出したものということだけだろう。

高地の冷気の下で暮らしているひとびとにとって身体を内部から温めてくれる飲料は、自
然環境が持っているデメリットを克服するものになった。飲料としてのコーヒーが選択さ
れたのは、かれらが日々畑で行っている労働作業にコーヒーの持つカフェインが有益な効
果をもたらすと感じたからだろう。コーヒーの苦味を軽減させるための甘味は昔、サトウ
キビの搾り汁が使われていた。

「朝、畑仕事に出る前に、時々コフィシウィを飲むことがあります。身体がリフレッシュ
されて疲れにくくなり、またお腹がすかなくなるから、昼まで働くことができるのです。」
ラナ人のひとりはそう語った。しかし多くのひとはコピシウィを儀式や祝祭の場で飲むも
のと捉えている。

農産物の大収穫の祝祭やアダッで定められた儀式の場に集まったひとびとに必ずコピシウ
ィが振舞われる。コピシウィはラナ文化の中で特別な飲み物になった。そのためだろうか、
コピシウィの粉末はどこにも売られていない。

たとえば今回のコンパス紙取材班のようなケースに運よくめぐり逢えたとして、コピシウ
ィを作った家のひとに「残った粉末を売ってもらえないだろうか」と頼んでも断られる結
果になるだろう。それは種族文化が神聖視されていることを示しているのだろうか?


ラナ人はコーヒー豆を売ることはしても、コーヒー豆の粉末を売ることはしない。他人が
作った粉末でコーヒーを淹れる習慣がないのだろう。コーヒーを淹れるというプロセスの
中に乾燥豆の焙煎が重要な位置を占めているにちがいあるまい。そしてそれとは別に、も
うひとつ異なった要素として、コーヒーの実の収穫が完全に自家消費のために行われてい
る点にも着目する必要がある。

一年に一度のコーヒーの実の収穫が終わると、その家の一年間のコーヒー飲用はそのとき
得られたコーヒー豆だけが頼りになる。コーヒーを飲むという誇りに彩られた行為ができ
るのはその家のコーヒー豆ストックのおかげなのだ。だからひとびとは収穫して加工した
コーヒー豆を売って金銭に替えようなどとは考えない。コンパス紙取材班にコピシウィを
振舞った家の主は笑いながらこう語った。
「コーヒーの収穫からだいぶ時期が経ったので、家のコーヒー豆のストックも残り少なく
なっています。それを売るわけにはいきません。収穫祭直後であればたくさんの家でコフ
ィシウィを作るし、うちでも作るから粉末のコフィシウィをお土産に差し上げることもで
きますが、今の時期ではとても無理な話です。次の収穫期までは、もしまたコフィシウィ
を飲みたくなったらここに来てください。」

何でも金に換えられるなら金にしよう。しかもできる限り高額に。文明化した社会の常識
がきっとそれなのだろう。ラナ湖一帯にしかない珍しいコーヒーは売り物として大きな可
能性を秘めている。ラナ人の伝統文化の中にはもしかして、それ以外にも金の生る樹が埋
もれているのではないだろうか?さあ、文化再発見!生き残った文化を掘り起こして大売
り出しをしようではないか。・・・

ほとんど外の文明世界から隔絶されたラナ人の社会にそんなことを考える者はまだ出現し
ていないようだ。ラナ人の社会が金銭生活をまだ知らないということでは決してないので
ある。ラナ人が送っている日々の暮らしがいかに大自然に密着したものになっているか、
自然と共存するかれらの安定した暮らしに金銭がいかに大きいパワーと影響力を持てない
でいるか、われわれはその実例を後進的と言われている山間の田舎で目にしているのだ。

コンパス紙記事は次のようなコメントで締めくくられた。
「ラナ人社会は農産物を売買する時期がいつであればよいのかをセルフコントロールする
力を持っている。それは都市社会から既に失われてしまった原理だ。コピシウィのグラス
の中にそんな人間の暮らしの知恵がいまだに流れている。」
伝統文化の価値を金銭で売り渡すことが文明化なのだろうか?コンパス紙のこの記事はま
るで、人間の生き様に関する実像と虚像を対比して見せてくれているようだ。[ 続く ]