「マルクの悲惨(17)」(2024年04月12日)

マキアン島もクローブの産地であり、遠い昔からスパイスの商港として中国やアラブの船
が寄港していた。先にポルトガル人はWailoa(Tabelola)要塞、スペイン人はMauiritius要
塞を構えてマキアンを支配し、この島を他国の侵略から守ろうとしていたが、1608年
にVOCの攻撃でそれらの要塞は陥落し、イベリア連合は島から追い払われてマキアン島
はVOCのものになった。

Wailoa(Tabelola)要塞とMauiritius要塞は1612年に修復が完了し、VOCはそのふた
つの要塞をマキアン島守備軍の本拠地にした。またスペイン人が作ったTafasoho要塞もV
OCが奪取し、四隅に稜堡の加えられた強力な要塞に改造されて、1613年から使用が
開始された。

1634年になってから、VOCはさらに監視ポストとしてのPuwati要塞を建設し、マキ
アン島の防衛能力をより高いレベルにアップさせた。このプワティ要塞をオランダ人はDe 
Zeven Provincienと呼んだ。


オビ島(またはオビラ島)はバチャン島の南にあって、セラム島への中継地点に当たって
いる。この島は元々バチャン島に服属していた。1674年、マルク行政長官コルネリス
・フランクスがオビ島西岸に24人から成る守備隊を配置し、守備隊本拠地としての木造
の砦を築いてFort De Brillと名付けた。この砦は石造りの小型要塞に改造され、167
8年に完成してDen Brielと呼ばれるようになった。

1758年までVOCの守備隊は現地で活動していたが、オビ島は不健康な場所だという
判断が下されて、守備隊は引き上げた。空き家になった要塞の外にはVOCのロゴとNの
文字を刻んだ石が標識として置かれていたそうだ。NはNederlandを意味し、オランダが
領有していることを示している。


スラベス島は次のタリアブ島など他のいくつかの島々と共に、スラ群島を形成している。
スラ群島はバチャン、ブル、セラムなどと中部スラウェシを結ぶ線上に位置している交通
の要衝だ。島の首府に当たるサナナの町中にVOCが設けたDe Verwachting要塞がある。

この要塞は1689年にオランダ人が建てたHet Claverblad要塞を前身にしている。改造
工事が1736年に実施されてより大きく強固な要塞になり、そのときに要塞の名称もDe 
Verwachtingに変えられた。1790年代になってから、ヴィレム・アルノルト・アルテ
ィン第32代総督にちなんで、Alting要塞と呼ばれるようになったそうだ。

他にもスラベス島には、東岸のサナナとちょうど背中合わせになる西岸の位置にマルブフ
ァ村があり、そこにはポルトガル人の建てた要塞の遺跡がある。

タリアブ島。カワロ村にオランダ人が建てたと言われているKawalo要塞の遺跡がある。礎
石だけが残っていて、周囲は森林と原野になっている。[ 続く ]