「マルクの悲惨(18)」(2024年04月15日)

アンボン島は最初、島の中央部をヒトゥ王国が支配していた。1470〜1682年がこ
の王国の黄金時代だったそうだ。ポルトガル人がはじめてこの島に上陸したのは1513
年のことだった。かれらはこの島で最初交易を行なっていただけだったようだが、そこに
要衝を設けるため1575年に要塞を建てて恒久的なコロニー作りを始めた。場所はアン
ボン湾の奥深い入り江に面したホニポプという名の地区だった。

ポルトガル人は原住民を動員してNossa Senhora de Anunciadaと名付けた要塞を設け、そ
の要塞の周辺に原住民が集まって来て住んだ。アンボンと呼ばれるようになったこの町を
ポルトガル人は北のテルナーテに並ぶ中部マルクの本拠地に定めて域内センターに位置付
けたために諸活動はおのずと活発化し、アンボン島の住民ばかりか、周辺の島々の住民を
も引き寄せるようになった。

そのあとオランダ人がやってきてマルク地方の覇権掌握に動き出した。オランダ人がヒト
ゥ王国に接近してポルトガル人と手を切らせるように仕組んだ結果、ポルトガルはヒトゥ
を敵に回した。アンボンのポルトガル人に向けてプリブミの反感が強まり、テルナーテ・
ルフ・ヒトゥ・ジャワ・ゴワの軍勢を誘って攻め込んで来たVOC軍を防御しきれず16
05年にノッサセニョラドゥアヌンシアダ要塞は陥落し、アンボンのポルトガル人は降伏
した。VOCはそのポルトガル要塞を自分たちが使うことにして、名前をVictoria要塞に
あらためた。

1643〜44年、1673〜74年,1754年と度重なる強い地震に見舞われたアン
ボンの街は多くの建物が倒壊しあるいは破損した。ヴィクトリア要塞もそれから免れるす
べもなく、傷んでしまった建物を修復するに当たって、規模を拡張してより優れたデザイ
ンに改造することを決め、1775〜85年にアンボン都督を務めたベルナドゥス・ファ
ン・プリューレンの指揮下に要塞が作り変えられた。そのときに名称がNieuw Victoriaに
変更されている。


アンボン島は北側の大きい島と南側の小さい島がパソ地峡によってつながっていて、南側
の島も西に向かって並行して伸びているため、アンボン湾がまるで内海のようになってい
る。かつてパソ地峡は幅1キロ足らずの狭い砂州で、昔アンボン湾の漁民が東側のバグア
ラ湾の海に出るときはボートを引っ張って砂州を横断したそうだ。このパソ地峡は当然、
軍事上の重要地点にされた。

アンボン市内バグアラ郡中の一村になっている現在のパソ地峡は民家で埋め尽くされてい
るものの、その街区の間に空き地のようになっている場所があり、保存地区を示すために
行政が建てた看板が置かれている。そこがMiddleburg要塞の跡地だ。

Passo要塞またはミドゥルブルフ要塞の建設は1626年に開始された。完成した要塞は
1644年と1674年に大地震の被害をこうむり、1686年に再建された。この要塞
にはひとりの軍曹が指揮する10人の兵士で構成された守備隊が常駐し、4門の大砲がバ
グアラ湾を睨んでいた。

ミドゥルブルフ要塞から南東に1キロほど離れた小高い丘にBenteng Karangと呼ばれてい
る地区がある。ここもバグアラ湾の海を眺め渡す絶好の位置にあり、アンボン市の防衛体
制の一環としてカランという名の要塞が置かれていた可能性が感じられる。

アンボン島北岸の防衛体制は北の海岸線に要塞が点々と作られる形で構築された。一番東
寄りのものはヒトゥのLeiden別名Enkhuizen要塞。その西にヒラのAmsterdam要塞、更に西
に向かってSeith別名Benteng Kota Lama要塞、リマのHaarlem別名Van del Capelen要塞、
そして北岸最西端のアシルルにAsilulu要塞、更に海岸沿いに南に下ったところのラリケ
にはRotterdam要塞が設けられた。[ 続く ]