「居留地制度と通行証制度(7)」(2024年05月02日)

異民族居留地制度がネガティブな質的転換を起こしたことで、オランダ東インドに居留す
る東洋人在留者はまるで戦時下の敵国人抑留者のような暮らしを強いられることになった。
印尼華人文筆家は書いている。

この制度の下では、ひとりの華人もカンプンチナの外に住むことが許されなかった。たと
えヨーロッパ人住宅地区のあちこちの家のオーナーや地主であっても、あるいは広大な農
園を有する農園主であっても、レシデンやアシスタントレシデンの特別裁可を得ることが
できなければ、カンプンチナから遠いそれらの場所に仕事をしに行っても夕方には必ずカ
ンプンチナに戻らなければならず、仕事先で泊まることは許されなかった。

たとえ心の広いレシデンやアシスタントレシデンから特別裁可をもらっていても、地域行
政長官の交代が行われて華人嫌悪派ヨーロッパ人がその地位に就いたとたん、かつて与え
られた特別裁可はボツにされた。華人嫌悪派ヨーロッパ人もオランダ東インドには決して
少なくなかったのだ。

ひどい災難を受けたのは、特別裁可をもらってカンプンチナの外の場所で事業所に住んで
事業を行っていた華人だ。行政長官が替わったとたん、かれはその事業所から追い払われ、
居所と事業のすべてを失ったのだから。

カンプンチナから何パアル(1paalは1.5キロメートル)も離れた場所に精米作業所を
作って事業を行っている華人は毎朝早く家を出なければならず、そしてその日の仕事がど
れほどややこしく大変になって夜中まで働かなければならない状況に陥っても、夕方が来
るとそんなことには目をつぶって、かれはカンプンチナへ戻らなければならなかった。

おまけにその精米作業所が隣の行政区に位置していれば、通行証携帯義務が降りかかって
来た。有効な通行証を身に着けていないと、官憲の取調べを受けたときに犯罪者にされて
しまう。とは言っても罰金で済む話なのだが。

そういう遠い場所へ仕事をしに行く人間はたいていが事業主だった。自分の事業に私財を
投じ、身を粉にして働くひとびとだったのだ。そういう人間ほど、この制度が大きな困難
と労苦を事業と無関係な側面でかれらにもたらしたのである。


一方、通行証制度は1816年に開始されて1911年あるいは1914年まで続けられ
たとインドネシア語記事は解説している。あるいは1916年に廃止されたという叙述も
ある。居留地を離れる東洋人在留者はその行動について地区行政機構に届出と報告を行わ
なければならないとされたのである。これも戦時下の敵国人抑留者並みの扱いだろう。

自分が住んでいる行政管区から別の管区へ行くとき、たとえばバイテンゾルフからバタヴ
ィアへ行くとき、自分の居所を管轄しているwijkmeester(地区役人)に訪問先と旅の目
的、交通手段などを届け出て通行許可証を発行してもらわなければならない。目的地が2
ヵ所3カ所になれば必然的にパスも2枚3枚と必要になる。一枚の発行に0.5フルデン
払うのが普通だが、時には1.0フルデンになることもあった。

通行証発行者はたいていがそこの行政管区長であるアシスタントレシデンであり、住民か
らの申請を受け付けたウェイクメステルはそれをアシスタントレシデンの事務所に送る。
作られた通行証がウェイクメステルの事務所に届くのは午後の遅い時間になり、その日の
汽車にはもう間に合わないというのが普通だったから、みんな出発日の前日に申請した。
親戚のだれそれが危篤だという電報が来たとき、今から走ればまだ汽車に間に合うという
時間であっても通行証なしに汽車に乗るのはトラブルを作りに行くようなものだった。

たとえバイテンゾルフ鉄道駅でうまく汽車に乗れたとしても、バタヴィアの駅で必ず通行
証を尋ねられる。不携帯が発覚すればそのまま次のバイテンゾルフ行き列車に乗せられて
送り返される。時にはまるで抑留所から脱走した者のように手錠をかけられて列車に乗せ
られるから、他の乗客の目に恥をさらさなければならない。もしもその日の列車がもうな
い場合は、警察の留置場が無料ホテルになった。いわゆるhotel prodeoだ。[ 続く ]