「居留地制度と通行証制度(6)」(2024年04月30日)

若きスナン グヌンジャテイが広州を訪れてしばらく滞在した。イスラム布教に心血を注
ぐかれは、明のイスラム界と共に華人へのイスラム布教に貢献した。エジプト王家の血を
引くかれが明の宮廷と接触することは容易に起こった。そして王女鳳珍と知り合い、ふた
りは恋に落ちた。

王女が父皇帝に結婚の許しを得ようとしたにもかかわらず、皇帝はイスラム布教が国内の
秩序を乱す結果をもたらすことを恐れ、結婚を許すどころか、布教活動を熱心に行ってい
るグヌンジャティを国外に追放したのである。かれはチルボンに帰った。

しかし恋人を忘れることができない鳳珍の姿を見るにつけ、皇帝の心は痛んだ。娘に幸福
を与えることは親の務めだ。皇帝は鳳珍をジャワ島に送り出すことを決意して、船を南洋
に送り出した。鳳珍はチルボンの王宮に入ってグヌンジャティの妻のひとりになった。

このバージョンではオンティエンとグヌンジャティの結婚は1481年に行われ、オンテ
ィエン姫は南洋の厳しい気候と病魔のために1485年に世を去ったとされている。チル
ボンの王宮にはオンティエンという王族女性の名前が記録されており、また王宮墓地にも
その名を刻んだ墓標があるので、その女性が実在の人物だったことは間違いないようだ。

上のふたつの話はその女性の身元と経歴を描くために作られたものだろうと思われる。し
かし後者の話にバンテンの中国寺院はまったく関りを持っていない。

別の由緒譚としては、この寺院は1652年にスルタンアグンティルタヤサが建立したも
のとされている。これは今後ともバンテンをごひいきにしてくださいというメッセ―ジ代
わりの、スルタンが華人コミュニティにプレゼントしたものだったようだ。だからこの寺
院は最初から儒教‐道教‐仏教の三教寺院として建てられたものだと言われている。


東南アジアで確立されていた異民族居留地制度をオランダ人も摂り入れた。バタヴィア城
市の外周東側にはバンダ人のカンプン、西側はコジャ人のカンプンが配置されている。V
OCは最初華人をバタヴィア城市内に受け入れていたが、華人街騒乱のあとカンプンチナ
を城壁の南に作らせた。現代インドネシアではカンプンチナをたいていpecinanプチナン
と表現している。これはカンプンコジャをプコジャンと呼んだことと対をなすものだろう。
カンプンアラブやカンプンクリンには類似の表現が見られない。

この異民族居留地制度は異民族コミュニティの生活面での便宜を考慮したものであり、自
治権を与えて外来者の生活が独立的に営めるようにすることに意が注がれた。それは同時
に異文化を持つ異民族を特定空間の中に隔離して警備と監視の効果を高めるとともに、自
領民への異文化浸透をミニマイズして自領の秩序維持をはかるという、双方にメリットを
もたらすものでもあった。

この段階での異民族居留地制度はポジティブな姿勢で執行されていた印象が強く、異民族
コミュニティ構成員をその居留地に押し込めて出入りを見張るような法的強制力はまだ使
われていなかったようにわたしは感じている。コミュニティ構成員が居留地を去って現地
人社会に入って行くことを王国の官憲は悪事と見なしていなかったのではあるまいか。む
しろコミュニティの自治組織のほうが構成員に去ることを許さない姿勢を執っていたので
はないかという気がする。


異民族居留地制度に強制力を持たせるようになったのはオランダ東インド政庁の居留外国
人監視制度の執行が強化されてからのことかもしれない。ウェイケンステルセルについて
のインドネシア語解説の中に、オランダ人が行ったインドネシアの居留地制度は1740
年に始まったとするものがあり、あるいは1816年に開始されたという見解のものもあ
る。ところがStaatsblad van Nederlandsch Indie オランダ東インド官報1866年第5
7号で各地域の行政官が各人種の居住地区を指定すると謳った規則が制定されており、こ
れをその制度の開始と捉えた論もある。

ひょっとしたら、それまで行われてきた異民族居留地制度に法的強制力を持たせる質的転
換が1866年に起こったのではないだろうか。この制定に関連して書かれている説明の
中に、「この規則に違反して、指定された地区に引っ越さない東洋人在留者には入獄また
は25〜100フルデンの罰金刑が、現居住地での居住期限と共に与えられた。居住期限
というのは強制措置が執行されるまでの猶予期間を意味している。」と書かれている文章
がその印象を支持してくれるのである。[ 続く ]