「世界を揺さぶったスパイス(11)」(2024年05月02日) ランプンが繁栄する土地であることが悪党どもを引き寄せて、ジョホール人やマンダル人 の海賊や強盗団が荒稼ぎするためにやってきた。ランプンの原住民の多くがその犠牲者に なった。スナン グヌンジャティがプグン王国にやってきたのは、プグンの統治者が海賊 や盗賊団の横行に手を焼いて、治安の確立に協力してくれる勢力の支援を求めたからだと 言われている。 コショウで栄えるランプンは華人たちをも引き寄せた。華人たちは拠点をTeluk Betung地 区にオープンし、そこに開いた店でスパイス類や他の農産物を扱った。黒コショウを求め る外国商人たちは頻繁にそこを訪れた。ランプンの州都バンダルランプンはそんな形で礎 石が築かれて行ったのである。ランプンは20世紀初期までインドネシア最大の黒コショ ウ生産地だった。インドネシア自体が世界最大のコショウ供給国であり、それは1990 年代まで続いた。 ランプンで成功者になったプリブミの第一人者にバクリ一族の名前を挙げてもよいだろう。 商工会議所会頭を務め、政界に進んでからSBYレジーム下に統括大臣の座に就いたアブ リザル・バクリ氏の一族がそれだ。アブリザルの父親アッマッ・バクリが1940年代に バクリ&ブラザーズ合資会社をトゥルッブトゥンに設立して農産物を扱う事業を開始した。 その扱い品の中でもコショウが事業の大黒柱になり、その一族をビジネス界の雄に押し上 げたのである。ランプンのコショウはそんな恩恵を住民にもたらしていたのだ。 コショウの木は藪木で高さ10メートルに達し、花が咲いた後に付く実は熟すにつれて緑 から黄色そして赤色になる。木を植えてから5年後くらいに実をつけるようになり、収穫 は年に一回だけ。気候がもたらすリスクも大きく、もしも乾季が長引けば花が落ちてしま い、実はできない。 コショウは長期保存がきく。収穫したコショウを10年間置いておくことができると農民 は言う。しかも古くなると重さが増えるのだとも。昔ランプンの農民たちは、収穫したコ ショウを貯金のように扱った。資金需要が起こると、備蓄しているコショウを売って金に 換えた。コショウで家を建てたひとも少なくない。 しかし地元民がTanoh Ladoと呼んだランプンの地からコショウの影は薄まる一途をたどっ た。百年以上前にラドの地を埋めていたコショウの大農園は姿を消し、今ではパーム・キ ャッサバ・バナナ・カカオなどの農園に姿を変えている。 かつて黒コショウの大生産センターのひとつだったワイカナン県からもコショウは徐々に 減少して行った。「土が昔のように肥沃でなくなり、コショウが実をつける量が低下した のです。そのために地元農民はゴムやパームヤシに栽培を転換するようになり、あるいは 土地を売却して町に移り住んだりする結果になりました。」地元農民のひとりはそう語っ ている。[ 続く ]