「世界を揺さぶったスパイス(10)」(2024年04月30日)

ジョアナ・ホール・ブライアリは自著The Story of Indonesia's Spice Trade (1994)の
中で、コショウは6世紀にスマトラ島とジャワ島からインドネシアに入り、サンスクリッ
ト語から摂られたムリチャmericaという新しい名前を得た、とその歴史を物語る。

7世紀にはヌサンタラ(ジャワ島のバンテンとスマトラ島の諸港)から中国にもたらされ
る最大最高の商品の地位をコショウが占めた。12世紀末の華人著述家のひとり趙汝[辻-十+舌]
Zhao Ruguaはバンテンがコショウの重要な産地であることを記述している。その時代、陸
上のシルクロードを通る重要商品はコショウ・ナツメグ・クローブ・シナモンだった。

16世紀には中国商船の買付場所がバンテンに集中するようになった。その時期、バンテ
ンはアジアの通商センターになり、中国船は年間1千5百トンのコショウを中国に持ち帰
った。中国船とは別に、ヨーロッパ船は年間3千トンをバンテン港から積み出した。

1512年にはじめてバンテンを訪れたトメ・ピレスは、バンテンがコショウの大産地で
あり、インドのケララ州コチン産のものよりもバンテン港で売られているコショウのほう
が品質が優れているというコメントを書き遺した。

米国がバンテンのコショウの買付に動き出したのは18世紀中盤ごろで、マサチューセッ
ツ州セイラムとバタヴィアを結ぶ定期航路が開かれた時期に当たる。

各国のコショウ商人たちはバンテンに居留して現地のコショウビジネスに深く関わるよう
になった。ヨーロッパ人はバンテンスルタン国の王都が置かれたKota Pesisirでの居住許
可をスルタンから得て商館を建てるようになる。外国商人たちが居住したのはKarangantu
地区で、中国・ムラユ・ポルトガル・オランダ人などがそこに住んだ。

カラ~ガントゥの繁栄するありさまは次のように描写された。中国商人は硫化鉛で作られ
た穴あき銭kepengを持って来て取引した。そのコインはpicisとも呼ばれた。中国のジャ
ンク船は後から後からやってきて、陶器・絹布・ビロウド布・刺繍・金糸・針・くし・傘
・紙などの雑貨品を陸揚げした。アラブ人やペルシャ人は宝石や医薬品を、グジャラート
人は布・綿・絹を、ポルトガル人はヨーロッパやインド産の布を運んで来た。一方、カラ
ガントゥの市には後背地からランプンに至る広範な地域で穫れた膨大な量のコショウに加
えて、各地からプリブミの船が運んで来たスパイスもたくさん用意された。かれらは持ち
込んで来た品物でコショウやスパイスを買い、船に積んで帰国して行った。


インドネシア政府農業省スパイス薬用植物研究センター長は、バンテン地方に持ち込まれ
たコショウはその土地環境にフィットして豊かに生育したが、中部ジャワや東ジャワに広
げようとしたものの環境が適さず、普及拡大はスマトラ島に向けられてそれが成功したと
語る。世界的な知名度を得たランプンブラックペッパーlada hitam Lampungとバンカホワ
イトペッパーlada putih Muntok/Bangkaはどちらもスマトラ島産だ。黒コショウも白コシ
ョウも学名は同一のPiper nigrumであり、処理方法を違えることによって黒コショウと白
コショウの色と味の違いが出現する。

いま国内で最大のコショウ生産量を誇っているのはバンカブリトゥン州だ。2022年の
生産量は3万トンにのぼり、国内総生産量の38%を占める。かつてナンバーワンの生産
量を誇ったランプン州は独立前に年産7万トンを記録したものの、2022年の実績は1.
97万トンでそのうちの1.59万トンが黒コショウで占められている。

ランプン州で栽培されているコショウのメインは「Natar 1」種であり、ナタルというの
は州南部にある郡の名称だ。ナタル郡で得られたこの品種が州内最大の人気種になってい
るということだろう。このナタル1は州南部のカリアンダ郡ムラッブラントゥン村で得ら
れたブラントゥン種が品種改良されたものだそうだ。


17−19世紀にコショウは高価な商品になり、ランプンで産するコショウはバンテンに
運ばれてから世界中に船積みされた。ランプンのコショウ農園主や地主たちは大いなる繁
栄を謳歌することができ、農民たちがそのしぶきを浴びたのも理の当然だった。オランダ
人はコショウをpeperと呼ばず、「とても高価な」を意味するpeperduurと呼んだ。
[ 続く ]