「デリのニャイ(4)」(2025年06月24日)

また違う話として、デリスルタン国の建国説話もある。アチェスルタン国に黄金時代をも
たらしたスルタン イスカンダルムダが1612年ごろにラクサマナクダビンタンの称号
を持つゴチャ・パッラワンをデリ地方に遣わした。ラクサマナとはムラユ語源の単語で、
海軍の最高位階を示している。

ゴチャ・パッラワンはララン川地方に自分の領地を開き、アチェスルタン国の代表部とし
てデリ地方の平定活動を進めた結果、アチェに服属するデリ地方の領主が増加した。16
32年にかれはスングル領主の姫を妻にして威勢をさらに高め、デリ地方のほぼ全域を支
配下に置いた。1653年にゴチャが没すると息子のトアンク パンリマ プルンギッがそ
の後を継ぎ、ラブハンに都を置いてデリスルタン国を称し、アチェの支配から独立するこ
とを1669年に宣言した。


Hikayat Deliにゴチャ・パッラワンの素性が書かれている。ムハンマッ・ダリッというイ
ンドのさる王国の王子がいた。その王子の乗った船がクアラパサイで沈没したため、王子
は上陸してアチェに滞在した。

それからほどなくして、東ローマ帝国からやってきた7人の男がアチェの国内を荒らしま
わるようになった。アチェの軍勢の手に負えない賊に国内を荒らしまわられては、スルタ
ンも大弱り。するとダリッが世間を騒がす賊どもをひとり、またひとり、と倒し始めた。
アチェに平穏が戻ると、スルタンはダリッを王宮に招いて海軍司令官の地位を与え、ラク
サマナクダビンタンがかれの尊称になった。

アチェ海軍を率いて大きい戦果をあげたこのラクサマナにスルタンはゴチャ・パッラワン
の地位を与えた。それは王宮の高官や服属国の王を統率する役職を指している。

数年後、ダリッはアチェを去って旧ハル王国に自領を開いた。ポルトガルに後押しされた
ハルの反アチェ勢力を平定するのが、アチェスルタン国の現地総督としてのかれの目標だ
った。かれは住民のイスラム化と反アチェ勢力への硬軟織り交ぜた対応を執り、アチェへ
の服属者を増やした。さらに旧ハル王国における自分の立場を強化するため、スングル領
主の姫を妻にした。

その間に生まれた息子がトアンク パンリマ プルンギッを称して父親の後を継ぎ、デリス
ルタン国を興した。そしてアチェからの独立を宣言したかれはマラカのオランダ人と接触
をはじめた。

マラカのVOC日誌にデリの名称がはじめて登場したのは1641年4月であり、それ以
降、日誌にはDilley, Dilly, Delli, Delhiなど人によってさまざまな綴りでデリに関す
る情報が書かれている。アレント・パテルの率いるVOC船がはじめてデリの港に入り、
奴隷を買って積み出したのがVOCとデリの最初の接触だった。

ムハンマッ・ダリッがインド人であったことを考慮するなら、ゴチャ・パッラワンがアチ
ェからやってきた後でデリという地名がその地に興ったことが推測されるのである。


オランダ東インド政庁が東スマトラ地方に触手を伸ばしてきたのは1850〜60年代だ
った。リアウスルタン国にイギリス人が攻撃を仕掛けてきたため、シアッスリインドラプ
ラ王宮のスルタンはオランダに軍事支援を求めた。オランダがリアウを取り込むチャンス
が向こうからやってきたのだ。オランダ東インド政庁はスルタンがオランダに服属するこ
とを要求し、シアッスリインドラプラが支配権を持つ地方をすべて含んだ帰順協定が18
58年に成立した。こうしてデリ、ランカッ、スルダンがオランダの支配地になったので
ある。その年にオランダ人レシデンがリアウ地区に置かれた。

リアウレシデン行政機構がデリも管轄することになったわけだが、デリ株式会社がタバコ
農園事業の計画を持ってくるまで、たいした仕事はなかったのではないだろうか。オラン
ダが行ったデリ地方の実質的な支配の始まりは、デリ株式会社が開始したタバコ農園活動
の動きをバックアップする形で進められたのではないかという気がするのである。植民地
行政統治システムがその地に築かれる前にビジネスが先行した例のひとつがこれかもしれ
ない。[ 続く ]