「デリのニャイ(5)」(2025年06月25日)

デリのスルタンは1865年10月7日にオランダ東インド総督と帰順協定書にサインを
交わした。東インド政庁はデリにオランダ人首長を置かず、オランダが任命したデリスル
タンを首長にする形式を執った。

そしてデリ株式会社がタバコ農園を作り、その成功がたくさんの農園事業者にデリへの進
出を促す結果をもたらした。オランダ・ドイツ・イギリス・ベルギー・フランス・ポーラ
ンドそして米国と、デリの土地は欧米資本の農園で満ち溢れるようになったのである。そ
の黄金郷の核となる都市がメダンだった。

農園で労働者の需要が起こった。一方で、農園で生産された物産の輸出活動に関わる会社
がメダンに林立した。ビジネス都市には倉庫・運輸・通信・金融などの産業も不可欠だ。
メダンでビジネス管理者や事務員の需要が大規模に花開いたのだ。職を求めてメダンにや
ってくる者が増加し、町中に住民の家庭が急増し、生活物資の需要が高まり、教育や文化
の産業も興った。それらの相乗効果がメダンを黄金郷にした。メダンへ行けば必ず仕事が
得られて、大金を蓄えて故郷に帰ることができる、という噂がヌサンタラの各地に広まっ
た。その噂はデリ農園クーリー哀歌が流行することにまちがいなくひと役買ったはずだ。


メダンはプルーラリズムのショーケースのように言われてきた。宗教・文化・言語・種族
の異なるひとびとが集まり混じり合って調和した社会生活を営んでいる。2013年の2
564年陰暦正月の日、東南アジア最大のマハヴィハラであるマイトレヤ寺院は何千人も
の華人系市民で賑わった。バロンサイが演じられ、ランピオンを飛ばして新年の到来が祝
われた。しかしその祝祭が華人系市民だけのためのものでなかったことはマイトレヤ寺院
を訪れればすぐに解った。

ジャワ人・バタッ人・ムラユ人・イスラム教徒・キリスト教徒・カトリック教徒・ヒンド
ゥ教徒、たくさんの市民がマイトレヤ寺院に集まって来て、そこで行われているアトラク
ションを楽しみ、集まっている屋台店で買い物をした。まるでそれが市民のための祭りで
あるかのように市民のだれもがふるまっていた。

メダンから25キロ離れたビンジャイの町でタイプサムの祭りが行われるときにも同じよ
うなことが起こる。タミール系ヒンドゥ教徒が行うムルガン神への祭祀行事の日、祭りを
賑わすために華人グループがバロンサイを演じる。夜には客を迎えるジルバブ姿の娘たち
数十人がまるでジャワのパガルアユのように通路脇に立ち並ぶ。タミール系インド人プラ
ナカンたちも太鼓を打ち、籐棒でルバナを叩いてリズミカルなパーカッション音楽を奏で
る。すると集まって来たひとびとが浮き浮きと踊り出す。

メダンの町がそんな伝統文化を作り出したのをオランダ人の業績だったと評価する郷土文
化人もいる。メダンが町として発展したとき、その都市計画はオランダ人の手中にあった。
いくらデリのスルタンが首長であるとはいえ、常駐しているオランダ人補佐官の意向を無
視して統治を行うことは許されない。スルタンはオランダ東インド政庁の傀儡首長にすぎ
ないのだから。

メダンにはジャワ人・華人・ムラユ人・シーク人・タミール人など雑多な人種種族が呼び
込まれた。インドからシーク人が家畜牛と一緒に招かれて、メダン住民の牛乳の需要を満
たした。運輸面での力仕事のために華人が招聘され、更には農園労働者の需要を満たすた
めに中国本土から30万人の華人が一攫千金を夢見てデリの地に渡航して来た。おかげで
デリは華僑人口密度が最大の土地になった。インドからもタミール人が運ばれてきた。そ
して最後にジャワ人が農園労働者として集められ、メダンの町が発展してからは医療や教
育の分野がジャワ人知識層に仕事場を提供した。多分、1863年に東ジャワから大量の
ジャワ人を農園建設工事のためにオランダ船ジョセフィヌ号が運んできたのがその皮切り
だったのかもしれない。[ 続く ]