「デリのニャイ(6)」(2025年06月26日)

medanというムラユ語は日本語の「場や地」を意味する言葉だ。単なる土地や地面・地所
などでなく、人間が何かを行う場としての土地という意味なのだ。現在のメダンの町があ
る土地は古代から、ハンパランペラッやスカピリンなどのひとびとがそこへ来て交易を行
う場所だった。メダン村はクサワン・ビヌアン・トゥビンティンギ・ムルバウなどの諸村
に囲まれていた。そして大勢の人間が足?く出入りした。

デリ農園が呼び集めた異種族異文化の人間がメダンの町を埋めるようになったとき、ヨー
ロッパ風のエガリタリアン式ライフスタイルをオランダ人が住民に教導した。メダンの町
中にできたクダイコピにジャワ人の役人もやってきて他の市民と打ち解け合い、会話を楽
しんだ。封建時代真っただ中のジャワにいれば、貴族階層である役人が一般市民とワルン
コピで同席し、友人同士のように会話することなど起こり得ない。そんなことをすれば貴
族社会からつまはじきされるのが目に見えていたのだから。

メダンの市民生活の中で住民が多重言語者になるのは当たり前のことだった。同一種族間
で母語を使うのは当然で、クダイコピで異種族人と話をするときにはムラユ語やそれ以外
の相手の言語を使うことが通例になった。

インドネシア独立後はインドネシア語がメダンの共通語になった。ジャカルタを除く他の
都市では、その土地の地方語が優勢だ。たとえばスラバヤへ行けばジャワ語、バンドンへ
行けばスンダ語が街中で普通に使われる言葉になっている。ところがメダンとジャカルタ
だけは雑多な種族が混じり合って一つの社会を形成しているため、インドネシア語が街中
の共通語になっているのだ。メダンはそんなユニークな特徴を持っている。


19世紀末から20世紀にかけて、メダンはスマトラのパリと呼ばれる大都会になった。
ヨーロッパを震撼させた女スパイのマタハリが1900年から3年間、メダンのホテルド
ゥブールで舞台に立っていたそうだ。ヨーロッパで大スターになる前の、舞台歴を積んで
いた時期だったのだろうか。そのホテルはダルマデリと名を変えて現存している。

20世紀に入って自動車の普及が巨大なタイヤ需要を引き起こし、1910年ごろからデ
リでゴム農園が盛んになった。オランダ・イギリス・ドイツ・米国の資本がそこに入った。
そのあとベルギー人がパーム椰子農園を開き、コンゴから持ち込んだ苗を植えた。

1949年のメダン住民人口は10万人で、インドネシアプリブミ・華人系・インド人系
・オランダ人がそのほとんどを占めた。しかしオランダ人の人口でさえ、他のアジア系に
比べたらまったくのマイノリティだった。


メダン市政が1918年に始まった。メダンの都市行政がへメンテになったのである。へ
メンテという言葉は自治都市と翻訳されることが多いのだが、このへメンテは現代の自治
都市であって中世のそれではない。つまり現代の地方自治思想に従う自治都市なのであり、
国の中央政府の下部機構に該当していて、市長が置かれて自治がなされているというスタ
イルを指している。

1903年の地方分権法(官報第329号)に従ってメダンに都市資金運用コミッション
が設けられて自治行政機構作りが開始された。農園で満たされている周辺の市外部にはデ
リ部門カウンシルが同時に作られた。そして準備が完了した1909年4月1日に、市内
と郊外の自治行政機構が動き始めた。

市内行政は市行政審議会が統括し、委員長にメステルEP Th マイヤーが就任した。メダン
市行政に関してデリスルダンのレシデンを補佐する地位と機能をマイヤーが担ったという
ことになる。一方の郊外バージョンはカルチベーションカウンシルに改編された。そのよ
うにして農園主や管理人たちが地域行政に強い発言力を持つ体制が作られていったのであ
る。[ 続く ]