「トランスミグラシ(6)」(2025年07月26日) ランプン州タンガムス県の県庁府コタアグンからあまり遠くないチュプバラッ郡アンタル ブラッ村は地元民からコロニス村と呼ばれていた。Pekon Kolonisという言い方がその村 の代名詞だ。プコンとは地元の言葉で村を意味している。比較的近年まで、アンタルブラ ッ村をKolonis Antar Brakと呼ぶ地元民が大勢いた。 アンタルブラッ村はオランダ時代のコロニサシ政策が生んだ村だ。その時代にトランスミ グラシという言葉はまだ使われていなかったのだから、地元民がコロニス村と綽名したの も当然の話なのである。植民地支配の暗意は混じっていない。 コタアグンからそこに至る街道はなく、昔作られたアスファルトの小さい道を51キロ走 らなければたどり着けない。起伏の激しいその道路の半分はアスファルトがはがれ、随所 に大小の穴が散らばっていて自動車運転者を困憊させている。 ところがなんと、アンタルブラッ村の中に入るやいなや、レンガ作りの家屋が並び、中に はパラボラアンテナを設置している家も視野に飛び込んでくる。村の中央を走る大通りは 幅が広く、アスファルトこそ使われていないものの固く敷き詰めた砂利道になっていて、 そこまで走って来た51キロの道よりも通りやすい。この村はコーヒーとカカオの生産に よって比較的裕福な暮らしをしていることをその風景から感じ取ることができる。 2005年11月にランプン州バグレン村で行われたコロニサシ100周年・トランスミ グラシ55周年記念式典を取材したコンパス紙取材班は、コロニサシ時代の移住者を探し てアンタルブラッ村を訪れた。村の住人のひとりで当時75歳のハルヨ・スプラプトさん から話を聞くために。 ハルヨ老人はやせているものの、しっかりした姿勢でシャキシャキと動く。子供を8人作 り、今は孫も8人になっており、ひ孫が3人できた。話し方も明晰で、対話の受け答えも 素早い。オランダ時代のコロニサシ政策の初期のころに、両親と共にかれはランプンに移 住してきた。ヨグヤカルタを去ったのは1934年だったとかれは物語る。そのとき、か れはまだ4歳だった。そのときの入植者グループは54家族で、全員がヨグヤの住民だっ た。 移住者グループは石炭列車に乗せられてムラッを目指した。船でスンダ海峡を渡り、旧パ ンジャン港で降ろされ、港からバスでコタアグンへ運ばれた。そこからチュプバラッ郡の 山中へ行く乗り物はない。この移住者集団はコタアグンから徒歩で行政が定めた入植先へ 向かったのである。広い森林を抜け7つもの川を渉る長い旅を果たして、かれらは現在の アンタルブラッ村にやっとたどり着いた。 行政側はその場所に高床式の木製長屋を用意していた。各家族がそれぞれその長屋の部屋 に入って暮らした。用意されていた道具は農耕のための鍬や鋤だけで、それで森林を切り 開かなければならなかった。それらは行政側が用意してくれていたものの、食糧は何も用 意されていなかった。 その入植地に次の移住者グループがやってきた。バニュマスとブルブス出身の45家族が 第二陣として到着したのだ。こうしてその地域にアンタルブラッ村とカチャマルガ村のふ たつのコロニス村ができあがった。どうやら移住を希望したのは10家族ほどだったよう で、およそ90の家族は強制されたらしい。 移住してみたはいいが、入植地の自然環境はなまやさしいものでなかったから、努力の果 てに将来に見切りをつけた一家がジャワへ帰って行った。こうして、ヨグヤから来たグル ープの四分の一ほどが入植地から去って行ったのである。 「わたしらは森林の中で暮らすことに慣れていない。ましてやその森林には象や虎や猿が いて、わたしらが作った稲や畑の作物を食べ荒らす。動物はわたしらを困らせようとして いるわけじゃないでしょうが、ここは自分らの土地だと思っているんでしょう。だからそ こで栽培されたものは遠慮なしに食べるんですよ。」ハルヨはそう述懐する。[ 続く ]