「印尼華人差別(14)」(2025年08月25日)

インドネシア国籍者かどうか確定していない人間が田舎の村々に散らばって各自てんでに
商売しているのが現実の姿になっている。いくら突然外国人にされてしまったとはいえ、
外国人が野放しで田舎の隅々にまでわたって事業を行っているのは、外国投資や外国人管
理の面で悪影響をもたらすことになるから規制をかけなければならない。

こうして1959年政令第10号が制定され、県(Kabupaten)より下位の行政区画で行わ
れている華人の小売業が禁止された。ところがこの方針に各地方の行政と住民の反応がま
ちまちに出現し、極端なところは華人追放令のようになったものもあるし、緩いところは
店を閉めて商売をしていない風を装うだけで、家内で作った物を買いに来た客に家の裏手
で販売するのが黙認されるケースも見られた。

西ジャワ州ではシリワギ師団司令官が国内治安維持を名目にしてこの行政措置に肩入れし、
村落部在住華人を都市部に引っ越させる方針を推進させたために軍隊がらみの華人追放令
も巻き起こっている。

全国的な大騒動になったために生まれ故郷のインドネシアを去って中国大陸へ移住しよう
と考えた華人プラナカンも多数出現し、中国政府は移民船を仕立ててインドネシアに派遣
した。しかし移民船に乗れたのはおよそ14万人いたと言われている本土への移住希望者
のうちの4万人ほどでしかなく、そのプロジェクトは中途で打ち切られたために移民船が
インドネシアにやってこなくなった。大多数の移住希望者がインドネシアに取り残された
のである。インドネシア在住華人が外国人だと言われる偏見に根拠を与えるのにその現実
がひと役買った可能性か推測される。

ところが都市部はこの規制から外されていたから、ただでさえたくさんあるトコチナやワ
ルンチナが地方部から引っ越してきた華人のおかげでもっと増えたそうだ。そのころ中央
ジャカルタ市クウィタンのクラマッ2通りではおよそ5百メートルの通りにワルンチナが
6軒も見られたとアルウィ・シャハブは書いている。


一家全員で中国大陸へ引き揚げた華人プラナカンもあれば、インドネシアに築いた財産を
維持するために子供をインドネシア国籍にして住まわせ続け、親だけが本土に渡った一家
もあった。中国大陸へ引き揚げてみたはいいが、いざ着いて生活を始めたところ、本土の
社会からよそ者異文化人として扱われて悲しい思いをした例がたくさんあったそうだ。

外国生まれの混血者なのだから、言語から生活作法の末節に至る文化ビヘイビアが本土人
より劣っているのは明白なのだ。ところが姿かたちが似ているから、本土のひとびとはか
れらの素性を斟酌しない。父祖の土地、憧れの祖国に戻ってすら、自分たちは異邦人扱い
されるという心の痛みを抱いた華人プラナカンが大勢いたという話が語られている。

植民地時代に東インドで風を切っていたオランダ系プラナカンがインドネシアに住めなく
なって、1950年代から60年代前半に続々とオランダに移住した。そこで起こったで
きごととはなはだよく似ているエピソードにわれわれは驚かされるのである。
オランダ系プラナカンの話は:
http://omdoyok.web.fc2.com/Kawan/Kawan-NishiShourou/Kawan-41EndofDutchColony.pdf
の中の「オランダ人引き上げ者の苦難」をご参照ください。


中国籍を放棄してインドネシアの単一国籍者になった華人にはインドネシア国籍証明書が
与えられた。このSurat Bukti Kewarganegaraan Republik Indonesia略称SBKRIはオルバ
期の終わりごろまで華人系プラナカン国民の必須条件とされていたが、1996年7月8
日付け大統領決定書第56号でインドネシア国籍を証明する公的書類はKTP、KK、出生証
書であると定められたためにSBKRIの法的有効性が不透明になった。続いて1999年大
統領指示書第4号で、SBKRIが条件に含まれているすべての法規において、SBKRIの条件は
無効であるという表明が出された。そしてさらに追い打ちをかけるように、インドネシア
国籍に関する2006年法律第12号が施行されるに及んでSBKRIの意味が失われた。

インドネシア国籍に関する2006年法律第12号はこれ。
https://indojoho.ciao.jp/archives/ijs03.htm
[ 続く ]