「印尼華人差別(15)」(2025年08月26日)

1998年に玉座から退位したスハルト大統領とそれを後継したハビビ副大統領の昇格政
権のあと、レフォルマシ政治の風が吹きすさぶ政界で第4代大統領に就任したアブドゥラ
ッマン・ワヒッが中華抑圧時代の幕を公式に閉じた。オルバ政権が定めた中華の宗教・信
仰・慣習に関する1967年大統領指示書第14号を取り消す2000年大統領決定書第
6号が2000年1月17日に発出されたのである。

華人系プラナカン国民に与えられていたその他のさまざまな規制と抑圧は国法上で続々と
解除されていった。こうして体制の中に設けられていた差別の壁が外され、消滅していっ
た。あとは国民社会の中に作られていた壁を非華人系国民がどうするのかという問題が浮
かび上がって来る。


2014年6月時点で、華人系プラナカン国民であることが明らかであるにもかかわらず
インドネシア国籍を証明する公的書類を何も持っていないひとびとが92,350人いる
ことを内務大臣が大統領に報告した。これは208,820人の対象者に対するインドネ
シア国籍認定手続きの進捗状況の報告であり、そのうちの116,470人の帰化手続き
が完了しているとそこに述べられている。

スカルノ時代に起こった国籍問題の嵐の下で中国本土に移住せず、インドネシアに残った
華人系プラナカンが全員SBKRIを取得したという「べき論」でこの問題を見てはならない
だろう。中国本土への移住を希望したにもかかわらず移民船に乗れないままインドネシア
に住み続けたひとびとのどれほどがSBKRIの手続きに方向転換したかを考えれば、悲観的
にならざるを得ないようにわたしには思われるのである。

結果的にインドネシア国籍を取得しなかったかれらの子や孫たちは、華人復権のレフォル
マシ時代が到来したときですら20万人がSBKRIを示すことができなかった。レフォルマ
シ時代が十数年経過したあとでさえかれらの帰化手続きはやっと半分しか進んでいないの
が実態だったことが上の内務大臣報告に示されている。


自分がインドネシア国民であることを証明するSBKRIを持っておらず、SBKRIの制度自体が
消滅してKTP・KK・出生証書がSBKRIを代替したあと、華人プラナカンがその三種類の書類
を得ようとしても役所はSBKRIを見せろと要求し続けている。担当公務員にしてみれば、
本人がインドネシア国民であるかないかを証明する書類を持っていないのに、本人をイン
ドネシア国民にする書類を発行できるわけがない。必然的に超クリシェ型プロシージャ的
対応が要求されるはずで、その対応を実行するのに時間がかかるのは当然だろうとわたし
は思う。

1954年にスラバヤで生まれたオン・ギョッビーさんは、インドネシア国籍を持たない
まま高齢者になった。ジャワ人の母から生まれたにもかかわらず、父親が華人プラナカン
だったためにインドネシア人としての権利を与えられなかったのだ。インドネシア人にな
ることはかれにとってまるで夢物語だった。

オルバ時代が終わったあとの2006年、かれはインドネシア国籍を得ようとして役所を
回った。町役場から郡役所、市民登録事務所などが出してくる条件の中に、廃止されたは
ずのSBKRIが必ず付随している。他にも改名証書を添付せよ、中国姓を記載せよ、・・・

それらの条件を満たしたところで、一件落着にならない。細かいことがらが問題にされ、
単純なものごとがややこしくなり、手続きが困難になっていく。判り切ったことをしてく
れと頼んでも、実施要領がない、あるいは書かれていない、という理由で役人はしない方
を選択する。そのころスラバヤにはかれと同じような状況に陥っている華人プラナカンが
100万人近くいたとかれは語っている。[ 続く ]