「印尼華人の受難(6)」(2025年09月06日) 家の近くまで戻ると、一般道の上にバリケードが設けられて地元の民兵や一般市民の男た ちが警備についており、暴徒がやってくれば追い払う態勢が作られていた。自宅から8百 メートルほどの距離にあるパサル一帯は14日に暴徒の襲撃を受け、ビルの並ぶ一角が焼 け跡の姿をさらしていた。1998年5月暴動におけるわたしの個人体験はそんな程度で 幕を閉じた。 大規模なモブによる暴動は首都圏一円を三日間荒れ狂った。地区によっては16日までモ ブが引き揚げなかったところもあったようだ。12日のオーバチュアのあと、13日に暴 動のプレリュードが始まり、14日がその山場で15日はコーダに入ったような印象があ るとはいえ、15日になってから移動して来た暴徒に襲われたエリアもあった。 この事件では雇われた者たちが暴動の核になり、扇動された地元民低階層がそれに自発的 に参加して巨大なモブに膨れ上がるという、明らかに計画された暴動の手法が用いられた と報告されている。つまりこれは政治的な効果を狙って仕組まれた暴動だったのであり、 人種的な対立が引き起こしたものではないと言うことができるだろう。人種的対立を思わ せる要素がこの暴動の中に多々出現したのは、それが政治的な効果を高める意味合いを持 っていたからだろうと考えられる。 14日の山場の中では、扇動者が低経済階層地区に入って行って住民をショッピングビル の掠奪に誘い、何百人もの青少年が掠奪に心を奪われているときにビルが放火されたこと から、数百人のプリブミ焼死者が出た。5月暴動が華人プラナカン層に向けられた人種差 別事件という解釈が一部の偏った声を反映する表面的なものでしかないことをその事実が 示しているのではないだろうか。政治効果を高めるには、死者が多ければ多いほど現政権 の痛手になるはずだ。 わたしは1974年1月15日にジャカルタで発生した反日暴動も体験している。田中総 理がジャカルタを訪れた時の反日デモが暴動に発展した事件は後にマラリ事件と命名され た。その日の白昼にジャカルタのあちこちで起こった暴動では、路上を走行中の日本車を ストップさせて人間を車からおろし、自動車を横転させたり運河へ落としたり、あるいは 放火する行為が行われた。看板が反日暴動なのだから、きっと日本車だけが狙われたのだ ろう。被害にあった自動車は数百台にのぼったと言われている。スディルマン通りにあっ たトヨタのショールームにも火がかけられた。しかしパサルスネンにも放火されているか ら、「反日」よりも「暴動」の方に力が注がれたのはまちがいあるまい。 街中の公道はがらスキの道路と大渋滞の道路に二分され、会社の運転手はわたしを乗せて がらスキの道路を突っ走った。そのときの暴動では、人間に危害を加えようとする者は少 なかったそうだ。死者はデモ参加者11人と報告されており、1千8百人近い死者を出し た98年5月暴動との一番大きい違いがそれだったようにわたしは感じた。98年5月暴 動の目的が反日暴動よりもはるかに凄まじいものであったことが、そこから想像できるよ うに思われる。 このマラリ事件は、スハルトの自由経済政策の恩恵を受けて続々と入って来た日系資本に 立場を脅かされはじめたことに強い危惧を抱いた華人プラナカン層の反感が事件の根底に あったと言われている。昔からインドネシアの経済覇権を握っていた華人プラナカンにと って、日本人との協調は難しいイメージがあったにちがいあるまい。 日本に次いでインドネシアへの投資国の上位にいたシンガポールや香港だったらこのよう な排斥ターゲットにされることはありえなかっただろうという気がするのは、かれらの感 情の中でシンガポールや香港は半ば身内同然だったはずだからだ。しかし華人プラナカン 経済人がその暴動に託したスハルトに対する恫喝は功を奏しなかった。 自由主義陣営の経済優等生になった日本が投下してくる資本を排斥することがスハルトに できたはずがない。スハルトにとって日系資本の流入は分割統治をサポートする態勢の構 築に役立つことにもなるはずだ。開発の父スハルトはインドネシアの市場を日本企業に広 く開いて行った。スハルトが日本経済に与えたその恩恵を知らないままスハルトを悪の独 裁者と日本人が非難する姿はまるでカリカチュア的に見える。[ 続く ]