「印尼華人の受難(5)」(2025年09月05日) 1997年後半にタイで通貨危機が始まり、その波が東南アジアを襲ったためにインドネ シアでも対米ドルレートが大幅に乱れ始めた。外為レートを維持しようとする政府当局と 外為市場の実勢がレートの激しい乱高下を引き起こし、インドネシア国内の経済活動が混 乱に陥った。そして政府はついにそれまで行っていた外為管理レート方式のさじを投げ出 して完全自由相場に移行せざるを得なくなった。1998年には対米ドルレートが過去の 三分の一を下回るくらいにまで暴落したのである。 そんな状況が国民生活に乱れを起こさないはずがない。石油燃料の大部分を輸入に頼って いたインドネシアはガソリン市場価格を引き上げざるを得ず、国内インフレの鍵を握って いるガソリン値上げが招いた大幅なインフレに襲われて庶民の経済生活は苦難のどん底に 突き落とされた。それを現政府の失政と世論が見なすのは当たり前の反応だ。スカルノ政 権末期の世相とどこか似ている社会情勢が進行していった。 全国各地でスハルト体制への反対デモが発生し、デモ鎮圧を任務とする国家治安機構との 衝突を行ってから、そのあと「ガス抜き」と呼ばれていた暴動に移行するという習慣的な パターンがまた繰り返されるシーズンがやってきたのだ。 1998年5月12日に西ジャカルタ市グロゴル地区で、地区内にあるトリサクティ大学 の学生がスハルト政権に対する反対デモを実施し、首都警察機動隊との間で大激戦が展開 された。投石された大小の石が乱雑に乱れ散っている道路でひとりの女子学生が路上に倒 れている報道写真がその事件のシンボルになった。 そのできごとの中で4人の学生が射殺された。機動隊の中に実弾をデモ学生に向けて発砲 した者がいたのだ。それがこのあと起こる大暴動のオーバチュアだったことが、後になっ て明らかになった。このシンフォニーはスハルト政権を崩壊させるための、実に巧妙緻密 に企画された大作だったと言って過言ではあるまい。 5月13日、罪のない4人の学生の生命が政治権力の犠牲にされたことへの怒りをはらん で世情が騒然となり、グロゴルやグロドッあるいは西ジャカルタ市の一部エリアで暴動が 始まった。 その日の夜、わたしは出張者を迎えにスカルノハッタ空港へ向かい、空港自動車専用道の 上でほとんど前進しない車列の中に紛れて何時間も時間を費やしたあげく深夜にやっと出 張者に出会い、ジャカルタ市内のホテルに送り届けてから自宅に帰った。日本からの出張 者はよくよく大変な日にやってきたものだ。 わたしと同じタイミングで空港へ別の出張者を迎えに行った駐在員は、運転手がタングラ ンを通って帰ったため、モブの中を抜けるときに終始床に寝そべって外から見られないよ うにしながらジャカルタに向かったと話していた。 5月14日、わたしはいつものように早朝から会社の運転手の運転する車で自宅から40 キロほど離れた会社へ出勤した。暴動と社会不穏に関する最新情勢には誰もが強い関心を 向けていて、それが話題の筆頭になっていた。 その日は昼前からコタ地区で大暴動が起こり、放火された家屋や商店が炎上して黒煙が空 を覆っている様子がテレビ報道されていた。午後には随所で人間への暴行殺人、商店への 掠奪放火が横行し、ジャカルタが無法状態になった。そして夜に入るとジャカルタ市内か ら近郊へと無法エリアが拡大して行った。社会の治安と秩序を成り立たせる責務を負って いる公安機構の部隊は市内から姿が消えていた。 会社ではローカル従業員を早々に帰宅させ、駐在員とローカルトップは会社を守るために 全員が泊まりこむことになった。テレビを前にして報道番組を見ながら情勢を分析し、夜 半を過ぎると交代で仮眠した。わたしは自分の業務デスクの上で寝た。 15日朝、ニュース報道の分析から暴動が峠を越したという判断がなされて、会社のトッ プ数名を残して全員が一旦帰宅した。わたしの帰宅途上では何事も起こらず、ガラガラの 自動車専用道をスムースに走って帰宅することができた。しかし自動車専用道の一部に巨 木が投げ込まれていたり、焼け焦げたタイヤが散らばっていたりして、道路状態は決して 走りやすいものでなくなっており、暴動のありさまをわたしに実感させてくれた。[ 続く ]