「インドネシア鉄道史(24)」(2025年11月03日)

1882年ごろからスタートしたバイテンゾルフ〜チアンジュル〜バンドゥン〜タシッマ
ラヤ〜バンジャル〜マオスという長い路線の建設を進めている間に、SSはチラチャップ〜
ヨグヤカルタ路線を建設して1887年に列車運行を始めた。そして西方のバイテンゾル
フ〜バンドゥンからやってきた路線をチラチャップ〜ヨグヤカルタ線に設けられたマオス
駅で接続させ、バタヴィア〜バイテンゾルフ〜バンドゥン〜ヨグヤカルタという鉄道ルー
トが1894年に開通した。

その10年前につながったソロ〜スラバヤ線に乗り継げばバタヴィア〜スラバヤの鉄道の
旅が可能になったのである。こうしてインドネシアの鉄道史最初のジャカルタ〜スラバヤ
間鉄道路線はバンドゥン〜ジョクジャ〜ソロを経由する長いものになった。この旅の難点
はジョクジャ〜ソロ区間がNISの路線になっているために連絡が乗客本位になっていない
こと、そしてバタヴィアからジョクジャまでの距離が遠いためにジョクジャで一泊しなけ
ればならないことだったと当時の知識人がそんな不満を書いている。


バタヴィアからスマランあるいはスラバヤへ行くために建設された鉄道ルートはボゴール
〜バンドゥンを経由してジャワ島南部を巡る路線が事始めだったのである。現代のわれわ
れの感覚からすれば想像を絶する現象だったと言えるかもしれないが、その現象を生んだ
ファクターは植民地時代の鉄道行政方針の中に間違いなく存在していた。

1903年にNISがグンディ〜スラバヤ線を開通させたとき、バタヴィアとスラバヤを東
西方向で結ぶ鉄道路線はどのような状況になっていたのだろうか?

バタヴィア〜カラワン〜チカンペッ SS1884年
チカンペッ〜チルボン SS1914年
チルボン〜スマラン SCS1899年
スマラン〜グンディ NIS1870年
グンディ〜スラバヤ NIS1903年

1903年にはまだすべてがつながっていなかったのだ。おまけに1914年にバタヴィ
ア〜スラバヤ間がジャワ島北部を東西ルートで往復できるようになったとはいえ、3つの
鉄道会社を乗り継がなければならなかった。

世間からの不評を浴びた二日がかりのバンドゥン〜ジョクジャ〜ソロ経由バタヴィア〜ス
ラバヤ鉄道トリップを途中泊なしで行えるようにすることがきっとSSのオブセッションに
なったにちがいない。既にBOSの路線を買収してバタヴィア〜ブカシ〜カラワン〜チカン
ペッ〜プルワカルタ〜パダララン〜バンドゥン路線を1884年に設けたSSはチカンペッ
からチルボンを経由して南下し、プルウォクルトを経てチラチャップ〜ジョクジャ路線の
クロヤにつなげる鉄道工事を開始した。バンドゥンから西ジャワ南部地方の山中を抜けて
マオスにたどり着く長い路線よりもはるかに時間が短縮できるはずであり、バタヴィアを
出た乗客はその日のうちにスラバヤまで達することができるだろう。[ 続く ]