「インドネシア鉄道史(83)」(2026年01月01日)

1970年9月15日になって鉄道国有会社という名称がPerusahaan Jawatan Kereta Api
鉄道業務会社に変更された。この社名は公共サービスを主眼に置いた国有事業体であるこ
とを示している。さらに1990年8月1日に社名がPerusahaan Umum Kereta Apiに変更
されたのは多分、jawatanという言葉が時代にそぐわないものになったための用語の変更
ではないかという気がする。鉄道公共サービス会社という意味に解釈できそうだ。

1998年にその名称がPT Kereta Api (Persero)に変わった。この名称変更は鉄道オペ
レータが事業組織であることを公的に宣言したものという印象を受ける。国鉄の公共サー
ビス機関という性格が誕生当初から一貫しているとはいえ、事業体としてビジネスマイン
ドとコストマインドを組織内に充満させる狙いがその社名変更を起こさせたのではないだ
ろうか。

1999年6月1日、その名称はさらにPT Kereta Api Indonesia (Persero)という現在
の公式名称に変更された。鉄道局発足以来、鉄道運行事業は国鉄の独占事業になっていた
が、2007年にその独占ステータスが法律で廃止された。インドネシアに民営鉄道会社
が芽吹く下地がそのとき用意されたということになる。

鉄道事業オペレータとしての国鉄とはまた別に、鉄道関連の国有事業体として1981年
にIndustri Kereta Api(略称PT INKA)が設立された。1884年にSSがマディウンに設
けた鉄道車両修理検車場がインカ社の前身で、オランダ時代に国内各地に設けられていた
Balai Yasaは国鉄の資産として使われているものの、この昔のバライヤサマディウンだけ
が鉄道車両製造会社として違う道を歩むようになった。


インドネシアの鉄道網は、インドネシアの大地が生み出す農林産物や鉱産物などの天然資
源を輸出する活動の便宜をはかることを最大の目的にして植民地宗主国のオランダが構築
した。その合目的性が高ければ高いほど大きい経済効果を刈り取ることができた。それは
現代インドネシア人の共通理解になっている。

マラン蒸気鉄道会社MSが1925年に上げた利益は貨物運送からのものが718,242.44フル
デンに達し、乗客運送からは278,341.63フルデンしか得られなかったという本論内の記述
は通例を示すものであって、例外を示しているのではない。

その体質は長い歳月が経過したあともインドネシア国鉄の鉄道事業に影響を与え続けた。
オランダ時代の鉄道に持たされた使命はインドネシア国鉄がそれを引き継いだとき、既に
姿を消していたにもかかわらず、国鉄の収益が貨物依存型であるスタイルには変化が起こ
っていない。乗客対貨物の運送比率は常に乗客のほうが軽くなっている。
1988年 乗客数5,401万人、貨物重量1,077万トン
1991年 乗客数6,185万人、貨物重量1,376万トン

2016年にコンパス紙に掲載された記事の中に、国鉄各操車地区別の収入ランキングが
述べられていた。1位バンドゥン操車区、2位パレンバン操車区、3位スラバヤ操車区が
稼ぎ頭の上位三傑だ。スラバヤ操車区は国鉄全国収入の10%を占めていて、その年間収
入高の源泉は4割が乗客で6割が貨物だった。グレータースラバヤ地域でのコミュータ列
車運行が行われていてすら、そうなっているのである。

日本語AIによれば、日本の鉄道事業の運輸収入は乗客からのものが圧倒的多数を占め、貨
物による収入の割合はごくわずかしかない。その事実が日本人の意識の中に、鉄道とは人
間の移動のためのものというイメージを焼き付けているようだ。その目でインドネシアの
鉄道の現状を眺めるなら、これほど人口の大きい国土でありながら鉄道の担っている役割
が貧弱すぎるために社会効率の劣悪さが推察されて、それを失政に結びつける意見も出る
にちがいあるまい。そのときに、歴史と文化の違いに思い至れば幸いなる哉ではないだろ
うか。[ 続く ]