「マルクの悲惨(9)」(2024年03月28日)

セラム島から真南にまっすぐ百数十キロ下った位置にバンダ諸島がある。ナツメグの故郷
がそのバンダ諸島だ。ナツメグが世界から求められる物産になったとき、ナツメグの交易
ルートが形成された。

それは12世紀初めごろだったという説がある。中国・ムラユ・アラブ・ペルシャなどか
らやってきた商船がナツメグを世界に散らばせた。西方に向かってはインドやペルシャ湾
の諸港に陸揚げされ、最終的にコンスタンチノープルに流れ込んだ。ヨーロッパへの供給
源がコンスタンチノープルだったからだというのがその説明だ。ヨーロッパでナツメグは
銀より高価であり、時には黄金を上回る値が付いた。

最初のヨーロッパ人であるポルトガル人は1512年にバンダにやってきた。オランダ人
は1599年、イギリス人は1601年にやってきた。17世紀にヨーロッパでナツメグ
は、バンダで仕入れた価格の6百倍で売れたそうだ。


バンダ人は自分たちが最善と思う方法でこの人気商品であるナツメグの取引に関する仕組
みと決まりを作り上げていた。バンダ島には王という概念の統治者がいない。慣習と宗教
の面から住民の社会生活を指導し統御している長老たちが村社会における自治の中心にな
っていた。かれらはorang kayaと呼ばれた。44人のオランカヤが島外に運び出される場
合の価格を決め、市場での争いを仲裁し、港湾と市場の連携を調整して港湾長をバックア
ップしていたと説明されている。

オランカヤの合議下で運営されているナツメグ市場に影響が出始めたのは、1607年に
VOCがPieterszoon Verhoeven率いる14隻の大船隊をバンダに派遣したのが発端だっ
た。この船隊は1千人の兵員を運んで来た。アルブケルケが1511年にマラカに対して
行ったことをVOCは真似たのかもしれない。バンダの住民はこの威嚇に震え上がった。
VOCの威嚇はもちろんバンダの住民にだけ向けられたのではない。先に来ていたポルト
ガル人、そして後からやってきたイギリス人に対しても向けられていたのである。

オランダ人は先にポルトガル人が要塞を作ろうとして礎石を築いた場所にオランダ型の要
塞を構築し、1609年に完成させてナッソー要塞と名付けた。ポルトガル人が要塞を完
成させなかったのは、バンダ人の反対が強固だったからだ。

しかしまた別の解説によれば、オランダ人はポルトガル人が1529年に建てた要塞を1
609年に奪ってナッソー要塞と名付けたという話もある。オランダ人が軍事的に足場を
固めてからナツメグ取引の独占に取り掛かるであろうことは、バンダに常駐するようにな
ったオランダ人の言動からすぐに察せられた。[ 続く ]