「マルクの悲惨(10)」(2024年04月01日)

オランカヤたちはピーテルソーン・フェルフーフェンに話し合いを申し込んだ。会合場所
は島の東側の海岸に生えている大木の下ということで合意した。当日、約束の時間にその
場所にやってきたフェルフーフェンはオランカヤがだれひとりそこにいないのを見て不愉
快になった。司令官のフェルフーフェンには何人もの部下と警備の軍勢が従っている。部
下の間に、後のVOC総督になるJPクーンの顔も見られた。

交渉相手のオランカヤを探すようフェルフーフェンは部下に命じた。会談相手のバンダ人
が海岸から奥に入った森の中にある小屋に集まっているのを発見した部下のひとりが「な
ぜ約束の場所で待っていないのか?」と尋ねると、「大勢の兵隊が付いてきているので怖
くなったのだ」とかれらは答えた。話し合いは兵隊がいないところで行いたいから、ボス
にここまで来てもらえないだろうかとオランカヤたちは言う。

その部下が戻ってフェルフーフェンに報告すると、ボスは警備隊をそこに残し、部下の商
務員や文書員など27人を連れて森の中に入って行った。小屋に近付いてきた28人のオ
ランダ人に向かって、オランカヤをはじめその手下のバンダ人たちが一斉に襲いかかり、
フェルフーフェンをはじめ何人ものVOC職員が殺され、あるいは捕らえられた。文書員
のクーンは辛くもその場を脱出することに成功し、身を隠しながらナッソー要塞に戻ると
全オランダ人にバンダから離れるように命じて、船隊をアンボンに向けて出帆させた。も
っと後の時代になって、そのときフェルフーフェンが殺された場所にできた部落はフェル
フーフェン部落、クーンがしばらく身を潜めた場所にできた部落はクーン部落という名前
が付けられて今日に至っている。


その事件のあと、オランダ人はまた様子を見ながらバンダに戻り、ナッソー要塞を本拠地
にしてナツメグの買付を行なっていた。そのころはまだバンダ側がナツメグ市場の主導権
を握っていたように思われる。要塞の撤去をオランダ側に求めたりしているのだから、オ
ランダの独占支配はまだ実現されていなかったにちがいあるまい。VOCとバンダ人の間
の衝突と小競り合いは絶え間なく起こっていたようだ。

そして、1609年に命からがらバンダ島から脱出することのできたクーンが1617年
に第4代総督に指名されたのである。クーンはバンダ島のナツメグ独占を軍事力で行うこ
とをためらわなかった。オランダ本国VOC重役会の中にもその考えに賛同する声があっ
た。クーンはバンダ人に対する復讐戦を開始した。

1621年2月27日、クーンは大型軍船13隻、小型軍船3隻、プラフ6隻の船隊を率
いてバンダネイラに到着し、ヨーロッパ人兵員1,665人、バンダ人兵士250人、日
本人傭兵100人の兵力を上陸させた。船上での諸用を務めるジャワ人虜囚286人もい
た。しかし別の説では、クーンの船隊は19隻で、ヨーロッパ人兵1,655人、アジア
人兵286人、そしてVOCに味方するバンダ人の船36隻を伴っていたと記されている。
クーンはバンダブサルへの進攻を開始するに当たって、現地に偵察船を派遣した。

戦闘行動が開始されて、バンダブサルは1621年3月11日に降伏した。バンダ人はナ
ツメグ貿易がVOCに独占されることを甘受しなければならなくなったのだ。かれらはひ
たすら、自分たちの生活を尊重してもらうようにクーンに懇請した。しかしクーンの復讐
心はまだ癒されていなかったのである。

4月21日にモスクで起こったできごとをクーンはバンダ人の反VOC行動と見た。口で
それらしいことを言いながら、腹の中はまるで信用できない人間がバンダ人であることを
自分はだれよりも知っている。VOCにたてつくバンダ人は皆殺しにしてしまえ。VOC
の兵員たちは手あたり次第にバンダ人を殺害した。死なないで捕まった者は拷問された。
たくさんの女と子供が海岸の絶壁から身を投げて死んだ。舟に乗って他の島へ逃亡できた
者はほんのひとにぎりだった。[ 続く ]