「マルクの悲惨(12)」(2024年04月03日)

ティドーレ島に王国が誕生したのは遅くとも1081年のことだった。イスラム教が国家
宗教になったのは14世紀であり、国王がスルタンを名乗るようになったのは1495年
に即位したスルタン ジャマルディン以来のことだ。それまでの王はコラノKolanoを名乗
った。ティドーレ王国はマルク域内の諸地方に支配の手を伸ばし、ハルマヘラ島南部・ブ
ル島・セラム島・パプアの西に散らばるたくさんの島々・パプア島西部海岸地方などを支
配下に置いた。

南北のほぼ同じ経度に並んでいるティドーレ島とテルナーテ島が支配権を東西に広げて行
った様子を見ると、まるで協定でも行ったかのような印象を受ける。テルナーテはハルマ
ヘラ島の西にある島々を支配下に置き、更に西方に向かってスラウェシ島の北部にまで影
響力を振るった。一方のティドーレはハルマヘラ島から東に向かってパプア島にまで覇権
を広げて行った。そのくせ両者は絶えず戦争し合っていたのである。


ティドーレ王国とパプア人の国々(村々と呼ぶべきだろうか?)との関係は14世紀もし
くはそれ以前に始まっていたようだ。それは宗主国と服属国という一方的なものでなく、
パプア人の側にも大きいメリットをもたらす関係になっていた。パプア人の国がティドー
レ王国と近い関係にあるということが、他のパプア人の国に一目も二目も置かせる畏怖を
与える心理効果を持っていたのである。ティドーレの名は神通力を持つ護符だったという
ことらしい。

1860年にワイゲオ島を訪れたイギリス人ウォレスは次のように書き遺している。「テ
ィドーレのスルタンの支配下にあるワイゲオ島の住民は極楽鳥・べっ甲・サゴなどを毎年
の年貢に差し出さなければならず、それを手に入れるためにかれらはパプア島に渡り、セ
ラムやブギスの商人から物品をクレジットで仕入れて原住民にふっかけ、年貢と多少の利
益が残るくらいの商売をして帰る。」

また別のトピックとして、「歴史的にパプアは古い時代からテルナーテ・ティドーレ・バ
チャンとのつながりを持っていた。14世紀ごろにはパプアの鳥の頭地域がティドーレス
ルタン国の支配下に落ちて、乱暴な徴税が行われ、諸権利の執行においてもパプア人に不
公平な扱いが行われがちだった。毎年税金を取り立てに来た者が徴税と称して略奪を行い、
人間を捕まえて奴隷にした。」と書いている。

パプアのラジャアンパッ地方を訪れるとマルク文化の影響が感じられ、両者間は単なる支
配被支配の関係を越えて文化的な関係にまで進んでいたことが判る。


テルナーテ王国がポルトガル・スペイン・オランダと敵味方になって深く絡み合ったよう
に、ティドーレ王国もスペイン・ポルトガル・オランダとの間で王国の存亡をかけて関わ
り合いを持った。

1613年の大規模攻勢のあとVOCはティドーレの王宮を懐柔し、ティドーレ島の要塞
に立てこもっているスペイン軍を見放すように導き、スパイス貿易の独占を進めた。王宮
はVOCの干渉に甘んじるようになった。

1779年にVOCは、時のスルタンが反抗したという理由でスルタン ジャマルディン
をバタヴィアに流刑した。VOCはイエスマンをスルタンに据えることを常道にしていた
のだ。父王への暴虐な仕打ちに怒ったシャイフディン王子がVOCへの非難と抗議の声を
上げ、ひとびとに敵対行動を促した。[ 続く ]