「マルクの悲惨(13)」(2024年04月04日)

次の王位に就くべき王子はシャイフディンだったが、かれは弟のカマルディンと一緒に反
VOCの旗を振ったため、VOCは別の王子を王位継承者に推薦した。1780年、王宮
はVOCの望むスルタン パトラアラムを即位させた。だがその王位は3年しか続かず、
そのあとをカマルディンが継いだ。シャイフディンは反VOC戦争を計画し、連合軍を編
成するためにティドーレに味方する諸国を求めて遊説の旅に出た。

かれはまずイギリス人を誘い込んでテルナーテを説得し、味方につけた。オランダに反抗
するマルクのプリブミをイギリス人は大喜びで応援したようだ。オランダをつまずかせる
ことがマルク地方にやってきたイギリス人にとって最大の使命になっていたにちがいある
まい。イギリス東インド会社がプリブミ反乱者に武器兵器を融通した。かれは更にパプア
にまで赴いて、ラジャアンパッ・サラワティ・ミソル・ワイゲオ・タンジュンオニンなど
の統治者からの支援を得た。

1781年、シャイフディンはセラム島東部に反VOC戦線の本拠地を置き、連合軍がそ
こを固めた。海岸線に沿って砦を設け、海に水雷を敷設し、大砲を並べて近寄る敵ににら
みをきかせた。海戦の主役になるコラコラ船隊はセラムの本拠地を含めて各地に配備され、
海戦や上陸作戦の要を成した。各地に置かれているVOC守備隊は連合軍の攻撃を受けて
多忙な日々を送るようになる。


1787年、VOC軍は連合軍を壊滅させる大作戦を実施し、セラム島東部にあった本拠
地を陥落させてセラム島の全域を確保した。シャイフディンは本拠地をゴロン島に移して
闘争を継続した。ゴロン島はセラム島東端から60キロほどしか離れていないのだが、V
OCはそこにまで攻勢をかけることをあきらめたようだ。その理由はよくわからない。死
期の近付きつつあったVOCにとっては、60キロの進軍に息切れがするような体調にな
っていたのだろうか。

1796年、反VOC連合軍はバンダ島を陥落させた。翌1797年にはティドーレ島に
いるVOCを攻めて敵を追い落とした結果、ティドーレ島からVOCの旗が姿を消した。
そしてスルタン カマルディンが没したためにシャイフディンが王位に就いて、スルタン 
ヌク・ムハンマッ・アミルディンを称した。一般にスルタン ヌクと呼ばれているのがこ
の人物だ。

故郷に戻った新スルタンのヌクは、続いてテルナーテからVOCを駆逐する作戦に取り掛
かった。激闘の末にヌクはそれにも成功した。そして念願の北マルク地方からのオランダ
人一掃を果たして、かれは快心の笑みをたたえながら故郷のティドーレで1805年に永
眠したのである。

スルタン ヌクの功績はVOC本家の事情がその成就を助けたと言えないこともないだろ
うが、マクロな構図の中ではこの種のことが頻繁に起こるものだ。これが人間世界におけ
る個々人の持って生まれた福というものなのだろう。[ 続く ]