「マルクの悲惨(14)」(2024年04月05日)

アンボン島の東側に、東に向かってハルク島・サパルア島・ヌサラウッ島という三つの島
が並んでいる。この三島はLeaseという別名でも呼ばれており、マルクの源流と考えられ
ている。クローブやナツメグをはじめとするスパイス類の上質のものがレアセに満ち溢れ
ているという伝説がヨーロッパ人をマルクの多島海に引き寄せる役割を果たした。

レアセの中心を成すサパルア島はマルクのクローブ生産センターの一つだ。現代のサパル
ア島を訪れて村落部へ行けば、天日乾燥させるために家々の表に置かれたクローブ・ナツ
メグ・メースなどの勢ぞろいしている光景を見ることができる。丸一日、あるいはそれ以
上太陽熱で乾燥させ、十分乾燥したものが販売される。


16世紀にポルトガル人がやってきてテルナーテを支配下に陥れると、かれらはマルクの
他の島々に支配の手を広げていった。そのあと、イギリス人とオランダ人がやってきてポ
ルトガル人を駆逐し、最終的にイギリス人もマルクを去ってオランダ人がマルクの支配体
制を確立させた。

百年以上にわたってオランダ人の搾取が続けられ、悲惨な暮らしを余儀なくされていたサ
パルア島民衆の中に反オランダ闘争を率いる者が現れた。折しも、1810年にマルク地
方の統治権がイギリスの手に渡った。イギリスインド軍のジャワ島進攻は1811年に行
われている。マルク地方のイギリスによる統治がオランダVOC時代ほど過酷でないこと
を実感した民衆は親イギリスの心情に傾いた。

アンボンのイギリス政庁が1816年に地元民を募ってプリブミ軍の養成を開始したとき、
サパルア島ハリア村の青年トマス・マトゥレシがそれに応募し、軍事訓練の中で頭角をあ
らわした。かれは下士官の最高位である曹長の階級を与えられた。

ところがイギリスは1817年にマルクの統治権をオランダに返還してインドへ去ること
になり、それを知ったイギリスプリブミ軍の指揮官たちは無念さを抑えることができなか
った。かれらはオランダ人が戻って来ることに抗議して、反対行動を起こすことを決めた。
オランダ人は1817年3月25日にマルクに戻って来た。そしてイギリス人との間で行
政と軍事の引継ぎを終えると、原住民に対する統治を開始したのである。


マルク地方では村がnegeriと呼ばれている。各村では男子青年たちが戦闘部隊を編成し、
カピタンと呼ばれる指揮官がそれを統率した。多数のネグりが連合軍を形成する場合、そ
の最高指揮官はカピタン パティムラと呼ばれる。トマス・マトゥレシは旧イギリスプリ
ブミ軍の他のプリブミ下士官らと連絡を取りながら、反オランダ武力闘争を開始した。カ
ピタンパティムラの地位がかれに与えられた。

カピタンパティムラの軍勢はサパルアのドゥルステーデ要塞を陥落させ、さらにアンボン
から送られて来た派遣部隊を敗走させた。そしてかれは独立国を宣言したのである。軍勢
は更にハルク島のニューゼーランディア要塞の攻略に取り掛かったものの、アンボンから
続々と送られてくる敵の援軍によって戦況は逆転し、反対にカピタン パティムラの本拠
地になったサパルアのドゥルステーデ要塞にオランダ軍が矛先を向けてきた。

敗軍の将になって逃走したカピタン パティムラを捕らえるためにオランダ側はあらゆる
手を使った。そしてその手に乗ったマルク人がトマス・マトゥレシをオランダ側に売り渡
したのだ。カピタン パティムラはアンボンで絞首台の露と消えた。[ 続く ]