「ヌサンタラの紙(5)」(2024年04月05日)

1950年代には、クルタスグドッポノロゴ製造所に日本政府やインドネシア政府から注
文が来て忙しい日々が続いた。ところが60年代に入ってから注文が激減し、1962年
には誰も注文して来なくなった。皮肉なことに、マルスディが最期に作った製品は第一回
東ジャワ州工業博覧会に出展するためのものだった。

ダルアン紙の製造作業所で閑古鳥が鳴くようになり、マルスディはダルアン作りをあきら
めて郡役場に勤めるようになった。スパルティ自身は近くのプサントレンの塾生を相手に
するコーヒーワルン稼業を始めた。雇っていた10人の作業員も自分の食い扶持を別に求
めなければならなくなり、全員が農業労働者になって経済的に厳しい暮らしに陥った。雇
用主のマルスディ=スパルティの暮らしもかれらと似たようなものだった。黄金時代がわ
ずか数年後に急転直下の倒産を迎えたのだから、きっと本人たちは信じられない思いをし
たことだろう。


ダルアン紙が使われている古来からの伝統工芸品にwayang beberというものがある。ワヤ
ンベベルはその名の通りワヤンの一種であり、ワヤン芸能というのはどれも語り手が物語
るストーリーに合わせて演台で演じられるものを鑑賞するという共通性を持っている。

良く知られているワヤンにはワヤンクリッやワヤンゴレッなどがあり、演台の上で人形が
動くのである。ところがワヤンベベルは巨大な絵が演台の上に置かれるだけで、動く人形
などはまったく登場しない。ダルアン紙はその巨大な絵を描くキャンバスに使われてきた。

何百年もの年齢を経た現存するワヤンベベルの絵はたいていがダルアン紙の上に描かれた
ものだ。だがワヤンベベル芸能はあまり演じられなくなっており、元気に生き延びている
ワヤンクリッやワヤンゴレッに比べるとワヤンベベルは廃れかかっている印象が濃い。

ワヤンベベルという芸能は、簡単に言えば平絵紙芝居のようなものと考えて良いだろう。
日本の紙芝居は最初、立絵紙芝居から始まったとされている。それをワヤンの世界に例え
れば、ワヤンゴレッやワヤンクリッのようなものが形態的に似ていると言えるように思わ
れる。日本の紙芝居は立絵がすたれて平絵に移ったのが歴史の流れだったというのに、ワ
ヤンの世界では平絵のほうが廃れかかっていて、立絵はいまだに盛んに演じられている。

ワヤンベベルの上演では、絵の描かれた巨大なダルアン紙の幕が観客の目の前に置かれ、
語り手であると同時に演台上の動きを操る、dalangと呼ばれる演者がストーリーを進めて
いく。ダランは絵幕の後で物語りながら絵幕を操り、更にダランの後にガムラン楽隊がい
て音楽を添える。ketuk+kenong、kempul+gong, kendang, rebabを担当する四人の楽隊編
成が通常のものだ。


ベベルという言葉は元来ジャワ語で「幕や巻物や傘を開く」ことを意味している。多分そ
こから派生したと思われる「開陳する」「弁述する」という意味も持っている。ワヤンベ
ベルに使われるのは絵が描かれている巨大なダルアン紙の幕だ。幕の両端は棒に貼り付け
られていて、左の棒に幕が全部巻き取られている。上演に際しては語り手が左右の手で一
本ずつその棒を持って絵が観客の方に向くように広げ、棒を台の穴に差し込むのである。
この台はダルアン紙の幕を収納するための箱を兼ねている。

語り手は観客に見せている絵のシーンのストーリーを幕の後で物語る。そして次の絵のシ
ーンに移るとき、棒を持ち上げて幕の開いていた部分を右の棒に巻き取らせるのである。
すると当然、左側から次のシーンの絵が出現するという寸法だ。[ 続く ]