「ヌサンタラの紙(6)」(2024年04月08日)

ワヤンベベルもジャワ島がイスラム化する前から演じられていて、演題はマハバラタやラ
マヤナがメインを占めた。このワヤンベベルを鄭和の一行が目撃し、通訳として随行した
馬歓が瀛涯勝覧Yingya Shenglanに書き遺した。1413〜1415年ごろにマジャパヒ
ッ王国統治下のジャワを訪れた鄭和の船隊の一行が街中で人だかりがしているのに興味を
抱いて覗いたところ、語り手が物語しながら大きな巻紙に描かれた絵の一部を開いて、手
にした棒で指し示していたという見聞録がそこに記されている。


ジャワの古代文学者はワヤンベベルがパジャジャラン王国で生まれた芸能であると語って
いるが、ワヤンベベルの発祥は東ジャワのポノロゴ地方だと述べている説もある。ダルア
ン紙の存在がこの芸能を生んだ理由として採りあげられているから、ポノロゴ地方でも昔
はダルアン紙の生産が活発だったことが想像される。

ジャワがイスラム化した後、ワヤンベベルの演題がインドの物語からジャワの昔話のひと
つであるパンジ物語に変化した。イスラム化したジャワの王宮はヒンドゥ色の濃い話を敬
遠したにちがいあるまい。演台の繊細な装飾、幕に描かれた絵が細かく精密で、色にも金
色が使われたりしていることから、ワヤンベベルの最右翼のパトロンが王宮だったことは
疑う余地がない。

パンジ物語とは12世紀のカディリ王国の王子Raden Panji Inukertapatiに関する物語で
あり、この王子は1116年から1136年までKameswaraの名で大王の位に就いた。し
かし物語の中でPanji AsmarabangunやJoko Kembang Kuningなどの異なった名で登場する
バージョンも少なくない。そのパンジの半生を描いたさまざまな物語の中で、かれの名を
不朽のものにしたDewi Sekartajiとの恋愛ストーリーがもっとも人気のあるエピソードと
して演じられている。

昔は人間の一生について回る通過儀礼の祝や催事でワヤンベベルがよく上演されていた。
結婚式・妊娠7ヵ月目の祝・出産・割礼・葬礼などのためにひとびとが集まるとき、参会
者への娯楽がそんな形で提供されていたのだ。ところが長い歳月の果てにワヤンベベルは
徐々に衰退の道をたどることになった。


ヨグヤカルタ特別州グヌンキドゥル県では、昔盛んだったワヤンベベルの上演が途絶えて
久しい。演者の世代交代が起こらなくなったのがその原因だ。県内にはジャワ島各地と同
じように、伝統芸能である種々のワヤンを教えるsanggarと呼ばれる芸能教室があちこち
にある。ところがワヤンベベルの演じ方を教えられるサンガルは一ヵ所だけになり、おま
けに県内に遺されている絵幕もひとつだけになってしまった。オーナーが先祖伝来の家宝
にしているその絵幕はもうすり切れていて絵もぼやけて鮮明さが失われてしまい、上演に
使えるようなものでなくなっている。

その上さらに、持ち主がその絵幕を聖器扱いするようになったので、保管箱から出して絵
幕を開くだけでも祖霊への儀式が行われなければならない。巻物を開くたびに儀式が必要
になるのだから、練習のために借りるのもむつかしい。

社会の中でワヤンベベルが演じられなくなれば、地元民にとっては縁遠いものになるのが
当然の帰結だろう。ワヤンベベルの上演ができ、それを弟子に教えることもできるダラン
がいたとしても、弟子になりたいという若者がいなくなればサンガルどころか個人教授す
ら成り立たない。[ 続く ]