「星空のインドネシア(2)」(2024年05月21日)

なぜ傾いた小屋ができたのかをジャワ人は物語りに仕立てた。いわく、昔その場所で若者
たちが小屋を建てていた。ところが若いたいそうな美人がひとり、毎日水田で仕事してい
る者に弁当を届けるためにそこを通るのである。別のひとは神に供物を捧げるために通る
と語った。小屋を建てていた若者たちは気が散ってしかたない。そしていざ小屋が出来上
がったとき、小屋は歪んだ形になっていた。そのとき、若者たちの集中力を奪った美人も
その小屋の近くにまだいたのだ。

アルファケンタウリがその美女であり、ベータケンタウリは美女が巻いていたスレンダン
に見なされた。その2星はLintang Wulanjar Ngirimと名付けられている。南の島のひと
たちはケンタウルスを知らなかったのだから、アルファとベータケンタウリは南十字星と
セットにされたのである。

この美女の身の上もいくつかのバージョンに分かれた。口承文化というのはそのようなも
のだ。そのバージョンのひとつをオーセンティックなものにしようとする強迫心理傾向を
持つ者が非口承文化の人間の中にたくさんいるのは、真理真実は単一であってしかるべき
だという道理に絡み取られているからにちがいあるまい。インドネシアの口承文化も今で
は文字文化に多少なりとも変化したのだが、真理真実を単一にしようとする心理傾向は薄
いようにわたしには感じられる。それを口承文化の残滓と見て、やれ後進的だやれ非文明
的だと批判されるのも避けられないことであるものの、真理真実がパラレルに併存する世
界がこの宇宙の道理であるというパースペクティブを持つ人間から見れば、たくまずして
そこに近い位置にいるのがかれら後進的なひとびとということになるのではないだろうか。


さて、その美女を若いきれいな娘に描いたひともあれば、子供ができないまま伴侶に死に
別れた若い未亡人ということにしたひともいた。ジャワ男たちが昔からいかに若い未亡人
に憧れを抱いていたかということをそれが示しているように感じられて、わたしはニンマ
リとうなづいた。これは処女崇拝が否定される世界なのだ。

イスラム社会における若い娘は父親の貴重な所有物であり、結婚というプロセスを通して
夫に身柄を譲渡され、夫の貴重な所有物になる。だから若い娘といくら熱烈なる恋愛関係
に陥ったところで、娘の父親が承認しなければ男は恋人を手に入れることができないのだ。
その恋人が父親の承認した他の男の妻になり、そしてその男の所有物でなくなったとき、
言い換えれば未亡人になったとき、かの女はもはや自分を所有する者を持たない自由独立
の身になって、自分の好む男を自分の意志で選択することができるようになる。

ジャワ島の街道を車で走っていて、トラックの荷台の後に書かれているmenanti jandamu
という言葉の意味が最初よく解らず、考え尽くして到達した解釈がそれだった。わたしは
間違っているだろうか?


星座の名前から、その美女の名前がウランジャルであることが判る。ラデンガベイ ヤサ
ディプロの著したジャワ年代記には、タルブに住む子供のない未亡人ニャイ ウランジャ
ルの話が登場する。ニャイ ウランジャルが拾って育てた子供が後にジョコ・タルブにな
るという内容だ。ジョコ・タルブの物語は日本の羽衣説話とよく似た話で、天女を妻にし
て家庭を持ったジョコ・タルブが結局妻に去られるのである。

ただ、その星に付けられたウランジャルという名前はジャワ年代記が書かれた時代よりず
っと昔から使われていたのだから、ジョコ・タルブの養母とは関係がないというのが専門
家の判定だ。そうではあっても、ジョコ・タルブを身近な存在と感じているジャワ人にと
っては親しみやすい名称になるだろう。

アルファケンタウリとベータケンタウリの2星を上述の人間と衣裳という関係にせず、そ
れは美女の明るく輝く瞳だとしているバージョンもある。若者たちが建てた、傾いた小屋
をウランジャルが見つめているのだという話もあれば、かの女はその小屋にいる者に食事
を届けるために小屋を目指しているのだと語るストーリーもある。後者の発想はきっと、
傾いた小屋が実は収穫した作物を保管する穀物倉庫なのだというストーリーに容易に進展
するだろう。

こうしてリンタングブップンチャンはLintang Lumbungという別名を持つようになった。
これは乾季の到来、すなわち収穫の季節であるという生活の知恵を示すバージョンと考え
てよいのではないだろうか。[ 続く ]