「世界を揺さぶったスパイス(23)」(2024年05月22日)

1970年代にミナハサを覆ったボナンザはこの県をインドネシアで最高に繁栄する県に
した。その時代、乾燥クローブは1キロが1,100ルピアで売れた。米の価格はキロ当
たり25ルピアだった。ニッサンハードトップは乾燥クローブ8百キロと等価だった。

自動車ディ―ラーはクローブ農民に乗用車を売り込み、クローブとバーターして車を販売
した。1970年代を通してミナハサ県では自動車が売れに売れたと当時の自動車販売関
係者は語っている。クローブの収穫期が来ると自動車をトモホン・ソンデル・コンビなど
に運び込み、セールスマンが売り込みに回った。支払いはクローブで行ったそうだ。

マナドのサムラトゥラギ大学歴史学者はその当時のクローブ農民の精神性について、クロ
ーブボナンザがミナハサの農民生活文化を、従来の効率を優先する質実な生き方から浪費
指向に変えたと指摘している。自動車が消費文化を象徴するものになった典型をわれわれ
はその現象に見出すことができる。


ミナハサ社会にデカダンスをもたらしたものは、クローブが最初ということでもない。ミ
ナハサの農民社会に入って来た作物は17世紀のコーヒー、18世紀の陸稲、19世紀に
コプラ、そして19世紀後半から20世紀にかけてのクローブと続く。

オランダ時代に強制されたコーヒー栽培では、全住民がコーヒーを植えるように命じられ
た。西ジャワのプリアガン地方から栽培経験者がミナハサでのコーヒー栽培監督人として
連れて来られた。ミナハサ産のコーヒーは高い値が付いた。他の地方でできるコーヒーが
キロ4フルデンだったときにミナハサ産は16フルデンというヌサンタラの最高値が付い
たのである。オランダ人はミナハサ人に対して、作るコーヒーの自家消費も他者への販売
も禁止した。その禁令への違反が発覚すると、スンダ人の監督人は違反者をコーヒー畑の
中に縛り付け、何日間も放置する罰を与えたという話だ。

ミナハサ農民はコーヒーアレルギーに陥ったのかもしれない。次の新しい作物が入って来
ると、さっさと古いものを打ち捨てて新しい作物に取り掛かった。米もヤシもミナハサの
南部地方には既に入って来ていたので、特に新知識というものではなかったが、支配者が
それを作れと勧めるとさっさと切り替えていったようだ。米もコプラも潤沢な生産が行わ
れ、支配者はそれらを輸出商品にした。ケマ港から船積みされた北スラウェシの商品作物
の中にそれらが混じっていたことは古い記録が示している。

クローブが北マルクから持ち込まれると、民衆はコーヒー畑をつぶしてクローブを植えた。
クローブの木は5〜10年でりっぱに生育し、ミナハサの大地を埋めた。1870年代に
始まったクローブの栽培は活発に進展し、1940年にはミナハサ県にクローブの木が3
0万本林立したそうだ。

ミナハサ産のクローブが、折から発展したジャワのクレテッタバコ産業に惚れ込まれてミ
ナハサにボナンザをもたらしたことは先に触れた。このボナンザのしぶきは、オーナー農
民ばかりか、雇われて働く農業労働者、花蕾を摘むピッカー、ピッカーが地面に落とした
花蕾を拾う者、乾燥作業者、花蕾を茎から外す作業者、料理人、各作業グループの監督人、
虫を取り除く作業者、最終生産品を買い手の倉庫に運ぶ運転手に至るまで、たいへんな数
のひとびとに降りかかったのである。一地方の経済がトータルで底上げされるようになっ
た。1970年代のミナハサのクローブ栽培面積は15,357Haで、クローブ生産産業
は46万人の雇用を生み出した。その時代、ミナハサ県の住民は20万人しかいなかった
のだ。[ 続く ]