「世界を揺さぶったスパイス(29)」(2024年06月03日)

【ナツメグ】
世界中でマルク地方のバンダ群島にだけ生えていたナツメグを巡って16世紀から18世
紀まで、ポルトガル・オランダ・イギリス・フランスがすさまじい奪い合いを演じた。原
産地は最終的にオランダが確保したものの、イギリスもフランスも熟した種を手に入れる
ことに涙ぐましい努力を払い、ヨーロッパに向かうVOCの船を海賊よろしく海上で襲っ
て積荷の中のナツメグを奪おうとまでした。商品としてのナツメグを奪われるのも痛手だ
が、その種を他の土地で植えられてはオランダのナツメグ独占が成り立たなくなる。その
最悪のシナリオを潰す方策をオランダ人も頭を絞って考えた。そしてどうしたか?

オランダ人はナツメグの実が発芽しないよう、未加工の実をライムの汁に浸けて船に載せ
たそうだ。そうしておけば、インドネシアからヨーロッパに向かう船がイギリスやフラン
スの海賊船に襲われても、海賊は商品としてのナツメグを手に入れることしかできず、そ
れを使って生産分野にまで立ち入ることは不可能になる。


1617年に本国のVOC重役会ヒーレン17が任命したヤン・ピーテルスゾーン・クー
ンVOC第4代総督はナツメグの産地をオランダのものにするために1621年、バンダ
原住民の大殺戮を敢行した。

その年早く、バンダ攻略のために13隻の大型軍船と何隻もの小型偵察船の一団がバタヴ
ィアからバンダに向けて発進した。その船団に乗っていたのは、1千6百人のVOC軍兵
員・ジャワ人捕虜3百人・日本人傭兵1百人・奴隷286人・水夫40人だった。その大
部隊がバンダネイラ島のナッソー要塞に入ったのは1621年2月27日のことで、それ
からほどなくバンダブサル島への侵攻作戦が開始された。このバンダに向けられたVOC
の軍事行動はクーンが1609年にバンダ人から受けた集団殺害行為に対する復讐だった
と言われている。

クーンは先にバンテンスルタン国の属領だったジャヤカルタを1619年5月30日に軍
事占領している。後にオランダ人によるヌサンタラ統治の牙城になるバタヴィアの命名を
クーンが指示したのが1621年1月18日、開都の日は1621年3月4日だった。つ
まりその日からバタヴィア市行政当局が業務を開始したということになるのだろう。


VOCはポルトガル人が作ったコロニアル都市アンボンを1605年に奪取してマルク地
方におけるVOCの根拠地にし、奪ったポルトガルの要塞に依拠してマルク地方の全域を
完全支配する行動に出た。VOCがアジア総督府をアンボンに開いて初代総督の座をピー
テル・ボーツに与えたのは1610年のこと。

オランダ人は北のクローブの産地を早くから取り込めにかかっていたものの、バンダのナ
ツメグに手をかけるのはかなり遅れて1607年に始まった。最初にバンダにやってきた
のはピーテルソーン・フェルフーフェン提督率いる14隻のVOC軍船隊だった。

オランダ人は地元原住民の意向を無視して、力づくでナッソー要塞を建設し、原住民に武
威を示してナツメグ取引を有利に行おうとした。オランダ人のやり口が原住民の容赦でき
ないものだったのだろう、原住民は奸計を使ってフェルフーフェンをはじめとするオラン
ダ人幹部たち28人を要塞から遠い場所に誘い出し、皆殺しにしようとした。

当時文書員のひとりだったクーンもその28人の中にいて、かれはあわや殺されかけたの
である。大勢が殺された中でクーンは何とか現場から逃げおおせることができ、ナッソー
要塞に戻ると総員退去を命じてアンボンに向けて去った。この事件の詳細は拙著「マルク
の悲惨(9〜10)」をご覧ください。
http://omdoyok.web.fc2.com/Kawan/Kawan-NishiShourou/Kawan-98_MalukunoHigeki.pdf
[ 続く ]