「世界を揺さぶったスパイス(30)」(2024年06月04日) 1621年ごろ、バンダ群島の住民人口は1万5千人くらいだったと推定されている。V OCによる大殺戮の嵐が吹き去ったあと、残っていた原住民は1千人に満たなかった。他 の島に逃げることができたのも数百人だけだった。生き残った者はバタヴィアに奴隷とし て送られ、かれらはカンプンバンダンをバタヴィア城市の東側に作った。 クーンは1622年、バンダネイラのドゥイワルナ村に総督邸を建設させた。浜辺を前に したその豪邸は今も建てられたときの姿で残されており、バンダネイラの観光スポットの ひとつになっている。砂浜の端に作られた突堤が沖に突き出していて、海から小型船でこ のIstana Mini Banda Neiraに直接入れるようになっているのはクーンのアイデアだった のだろうか? 人口が激減したバンダ群島では、ヌサンタラ各地からの移住者を受け入れて、かれらにナ ツメグの樹の世話と実の収穫をさせた。VOCに協力的なヨーロッパ人やアジア人もたく さんやってきて、VOCのナツメグ生産を盛り立てた。プリブミは労働者、異国人は経営 者管理者という使い分けがなされたのではないだろうか。 VOCはバンダ群島に広さ40Ha前後のナツメグ農園を68ヵ所設け、その農園の経営を 個人に請け負わせた。経営者はVOCからその土地を買って地主になったように思われる。 というのも、バタヴィアが南へ拡大して行ったころにそんなスタイルが執られていた事実 が、当時のVOCの基本方針がどうだったかということをわたしに推測させるのである。 であればバンダでも同じようなことが行われた可能性が高いのではあるまいか。 かれら異国人の中で土着して大規模なナツメグ農園経営を行ない、何世代にもわたってバ ンダの農園主として生きてきた混血子孫たちはperkenierと呼ばれている。この綴りはイ ンドネシア語の中でプルクニエルと発音されるのが普通だが、これはオランダ語由来の外 来語であり、畑や花壇を意味する名詞perkを動詞化したperkenの人称化されたものがこの 言葉だ。ペルク‐ペルケン‐ペルケニール(もしくはペルクニール)が由来にちなむ語形 変化のように思われるのだが、ともあれ本論ではインドネシア語発音に倣うことにする。 そんな努力を払ったおかげでVOCは巨大な収入をナツメグから得た。1777年から1 780年まで第31代総督を務めたレイニア・ドゥ・クレルクは、1756年にナツメグ が180万フルデンの収入を上げたと書き遺している。しかしマルクに産するスパイスの 独占に最大限の努力を費やしたVOCが破産の坂を転げ落ちたとき、スパイス独占の企て も終末に向かって足早に歩み去って行ったのである。もっと大きな歴史のうねりが、スパ イスビジネスの世界を揺さぶったのだ。 そもそも、バンダ群島の西端の島であるRun島をイギリスは1616年から1667年ま で領有し、最終的にニューヨークのオランダ領マンハッタン島とナツメグの産地であるル ン島を交換した。だからその51年間にイギリス人はいつでも別の南洋植民地にナツメグ を植えることができたはずではなかったろうか。 にもかかわらずオランダ人はナツメグとクローブの売買を独占するために確固たる方針を 立て、ホンギトッテンと称する、マルクが原産のスパイスの樹の一大殲滅作戦を実施して 自らの監視と監督が難しい地域にあるナツメグとクローブの樹を根こそぎ滅ぼすような行 動を続けた。 ルン島では1664年にVOCがナツメグの樹を全滅させており、イギリスはその損害賠 償をオランダに要求したが、結局ルン島の領有を諦めてマンハッタンを取ることにしたと いう話も語られている。[ 続く ]