「世界を揺さぶったスパイス(31)」(2024年06月05日) ルン島はバンダ群島の最西端にある島で、海面下にできたサンゴ礁が島の周囲を包んでお り、この島に接近するたくさんの船を難破させてきた。ナツメグの樹がこの島の陸地を埋 め、毎年7百トンの実が生産されたと言われている。 バンダ群島というのは東西40数キロの緩い円弧状に並ぶ島々で、大きい島は東から西へ Hatta - Banda Besar (Lontoir) - Banda Neira - Banda Api - Ai - Runと並んでいる。 Runという地名は英語でないのだから、インドネシア語式にルンと読んでもらいたいもの である。 ナツメグに関する歴史概説には、フランスもイギリスもオランダの独占を破るためにナツ メグの種をモーリシャス・グレナダ・マレーシア・インド・ビルマ・ベトナムなど各地に 植えさせたと書かれている。ところがモーリシャスでナツメグ栽培が開始されたのは18 世紀、グレナダに至っては1843年というデータが得られた。マレーシアではペナンに 植えられたようだが、どうやらマルク地方がイギリスの手中に落ちた1810年より後の 時代だと思われる。 これでは、イギリス人はルン島のナツメグをどこにも持ち出さなかったように見えるでは ないか。どうしてそんなことになったのだろうかと、わたしと同様に小首を傾げた読者も きっといらっしゃることだろう。 一方フランス人は、1795年にフランス時代がオランダ本国に訪れる前にナツメグをバ ンダの地から盗み出してモーリシャスに植えたように感じられる。バターフ共和国の誕生 はフランス革命を模倣したオランダ人による革命だったわけだが、フランス人が公然とバ ンダからナツメグの種を持ち出せるようになるには1806年のルイ・ボナパルトを君主 に戴くオランダ王国誕生という状況の変化が必要だったのではあるまいか。それはともか くとして、オランダ東インド政庁はVOC方式のスパイス独占政策を1860年に全廃し た。それに先立ってマルク地方行政長官が1836年に所轄地域における廃止を定めてい る。 3千5百年前のものと判断されるナツメグの実の残留物がルン島の東隣りのアイ島で見つ かっており、バンダ島の古代人がナツメグの実を利用していたのは間違いないようだ。紀 元前1千5百〜1千年ごろにインドで書かれたヴェーダの中に、ナツメグは消化を良くし、 頭痛発熱・神経を鎮め、呼気を清涼にする効果があると記されている。 西暦6世紀ごろにはコンスタンチノープルがナツメグのヨーロッパへの入り口になり、医 薬品としての使用が開始されてそれがヨーロッパに伝わった。インド〜コンスタンチノー プル間の輸送はアラブ商人が主体になったのだろうか、それともインド商人だったのだろ うか?しかし13世紀ごろになるとかれらはナツメグを仕入れるためにバンダ群島へ直接 足を延ばすようになった。 一方、中国の古文書では、西暦紀元304年に世に出た南方草木状にはじめてナツメグが 登場する。社会的な使用の広がりは8世紀ごろからで、下痢・赤痢・腹痛・消化不良など の治療薬として使われていた。 現代のナツメグ世界生産量は10〜15万トンだ。インドネシアが4〜5万トン、インド とグアテマラもインドネシアと同程度。残りはスリランカ・マレーシア・タンザニアなど が埋めている。インドネシアが世界生産の5〜6割を占めていた時代はもう過ぎ去ったよ うだ。[ 続く ]