「350年は誇大宣伝?(3)」(2024年06月05日) インドネシア語ではたとえばKaum perempuan telah lama dijajah oleh....という語法も 使われる。この文を植民地に関連付けて翻訳するひとはいないだろう。わたしが何を言っ ているのかと言うと、この翻訳問題に関するかぎりインドネシア人は植民地という語が持 っている政治的な概念など爪の先ほども考えに入れておらず、自分たちは異民族の支配と 非道な統治を蒙ったということを主張しているだけという可能性を否定しきれないという ことなのである。 この意味のすれ違いがいったいどんな問題を生むのか?植民地という国家制度に関する検 討と解釈は形式論に向かう。たとえばあるプリブミ王国があって、その国王がオランダ王 国を代表するVOCあるいはオランダ東インド政庁と協定を結ぶ。それが国家間協定とし て成り立つためには、その王国が独立していなければならない。ほら、そのプリブミ王国 は植民地でないのだ。 しかしオランダ人が王国の宮廷に介入して来て、オランダ寄りの王子を王位継承者に据え て反対派を追放し、レシデンが常駐して新王を操り人形にしてしまったとき、その新王は オランダ人の言いなりになって、どんな内容の協定書にでもサインしてしまう。ほれ、そ のプリブミ王国はオランダの悪辣な手管によって支配下に落とされているのだ。 その点に関する議論は別の機会に譲るとして、オランダ人学者が反論している350年間 にわたるインドネシアでの植民地経営というのが白髪三千丈もどきのデマであるという論 証を見ていくことにしよう。 1942年3月8日にオランダ東インド植民地の歴史は幕を閉じた。1945年に独立宣 言したインドネシア共和国を滅ぼして昔の領土主権を取り戻そうと、その年末にNICA (オランダ東インド文民政府)がかつてのオランダ東インド植民地に戻って来て主要都市 部を占領し、全国の領土主権を復活させることに努めたものの、成功しなかった。だから 1942年から350年逆戻りした1592年にヌサンタラの全土はオランダの植民地支 配下に落とされていたということを冒頭のセリフは述べていると解釈できる。 史実を見ると、ヌサンタラにはじめてオランダ人がやってきたのは1596年のコルネリ ス・デ ハウトマンによるバンテン入港だ。ポルトガル人が作ったコロニアル都市アンボ ンをVOC(オランダ連合東インド会社)が奪ったのは1605年、VOC総督府がアン ボンに開かれたのは1610年。バンテンスルタン国の属領だったジャヤカルタを軍事占 領したのは1619年。オランダ人によるヌサンタラ統治の牙城になったバタヴィアの開 都は1621年。 ハウトマンの来航を取り上げて、その時にインドネシアが即オランダの非道と搾取の乳牛 にされる状況が始まったと語るひとにとってはほぼ350年間続けられたオランダ人の罪 ということになるのかもしれないが、その時点でオランダ人の行為はまだ罪という段階に 至っておらず、これはオランダ人の存在に対して向けられた告発という解釈になるのが妥 当ではないかとわたしには思われる。その姿勢はちょっと不当な印象をわれわれにもたら すことになる。諺にも謳われているではないか。「罪を憎んで人を憎まず」と。そうする と、一番古いところでアンボンの町とその周辺部が337年間オランダの植民地にされた というのが史実に沿った表現になりそうだ。[ 続く ]