「350年は誇大宣伝?(5)」(2024年06月07日)

1799年にVOCが領有していた土地は、ジャワ島だけを見てもバタヴィア・ボゴール
・プリアガン地方・チルボン・スマラン・スラバヤ・マドゥラ島東部などであり、ジャワ
島の支配者であるヨグヤカルタとスラカルタは独立王国としての地位を保っていた。

1877年以降、何度か結ばれた政治契約でヨグヤカルタは王国統治に関する制約を東イ
ンド政庁から受けるようになった。スラカルタも同じだ。ただ、この二王国は自国領の行
政統治における完全な主権を維持しており、オランダ側もそれを認めている。オランダ側
の干渉は政体の編成やあり方に限定されていて、インドネシア側は決して主従関係でなく
て対等な関係であるとしており、オランダに服属したことはないというのがインドネシア
側の主張だ。領国の行政統治を自由意志で行える面を捉えて、それらジャワの二大王国は
オランダの植民地になったことがないと言うことは可能な気がする。


1942年に日本軍がオランダ東インド植民地を奪ったときも、ヨグヤカルタとスラカル
タの二王国はオランダの植民地でないという理解に従って別扱いがなされた。日本軍政は
二王国領の外を州に分けて州長官を置いたが、その二王国に限って候地と呼び、スルタン
とススフナンを王国領の首長(主権者)と認め、ジョクジャカルタ候・スラカルタ候と呼
んでその地位を保全した。軍政監部レップとして事務局長官を常駐させたのは、オランダ
がレシデンあるいはフヴヌールを置いた先例に倣ったようだ。

1941年に発行されたオランダ東インドの現状を紹介する書物には、ジョクジャカルタ
やスラカルタは土人自治領、王は土候と表現され、「土人自治領の数は蘭印全土にわたり
今尚は二百以上の多数に及んでいるが、その主なるものは、ジャバのスラカルタ及びジョ
クジャカルタの両自治領、スマトラ東海岸州、アチェ州、リオー州、セレベス州、西部ボ
ルネオ州、東南ボルネオ州、チモール州およびモルッカス州内の各サルタン領である。」
と解説されている。その視点がオランダのものであることは言うまでもないだろう。

ただし、オランダ人が自治領と呼んでいるのは自国の包括的な支配下にある原住民の自治
領という意味なのだから、オランダ人がそれらの王国に対して植民地という感覚を持って
いなかったはずはないと考えて間違いあるまい。一方の原住民王国はプリブミの国王が先
祖代々行ってきた独立王国としての自領の行政統治を継続しているのだから、オランダの
植民地にされたという感覚は生じなかった可能性が高い。

現実にオランダ人は直轄領の行政機構の最高位にレシデンを置いて領内の統治を行ない、
また自治領と名付けたプリブミ王国にもレシデンを派遣した。VOCはレシデンという語
を国際法にもとづく使節として意味付けた。だからカルタスラの王宮にレシデンが入った
とき、レシデンは基本的に大使であり、国王の監視者と助言者の機能を持ち、王宮内でレ
シデンが関わるすべての決定は総督の裁可を仰ぐことになっていた。

だが、形態には何の変化も起こらなかったものの、長い年月の中でレシデンの機能が変化
し、最終的にレシデンは国王に命令する立場へと変わって行った。だから形式論一辺倒で
この問題を追いかけていては、ものごとの本質に迫ることが難しいようにわたしには思わ
れるのである。


VOCの時代からオランダ王国が設けたオランダ東インド植民地の時代を通して、ヌサン
タラに興った少なくないプリブミ王国はオランダに滅ぼされないまま、国家主権を維持し
ていた。それぞれの国にやって来る船乗りたち、そして商人たちがその地の主権をプリブ
ミの王が持っていると認め、オランダ人もそれを追認した。

形式的にオランダの植民地になったのは上で述べたような直轄領だけであり、それらの地
方ではオランダ人が行政機構最高位のレシデンの座に着いて住民の統治を行なった。一方、
プリブミ王国はそれぞれの王が国家主権を掌握して領土内における行政統治を行っていた
のだから、オランダの植民地と呼ぶには形式的に無理があると思われる。[ 続く ]